本日の通勤電車のおとも。柳瀬『翻訳はいかにすべきか』。

翻訳はいかにすべきか (岩波新書)

翻訳はいかにすべきか (岩波新書)

まぁおもしろかった。ひとの訳したアップダイクの翻訳の、あれこれを(訳者の名前をあげずに)あげていくところとか、『ユリシーズ』の丸谷他訳のあれこれを自分の訳と並べてあげていくところとか、ひとごとなのでおもしろい。
まぁそれはそうで、たんなる誤訳とか原文への理解が浅いとか日本語の語感がセンスないとか、そういうのはいかんので、正しい訳がよいなあと思いつつ読む。
で、柳瀬訳の『フィネガンズ・ウェイク』は、つい先日も目にとまって、本屋に行くたびに買おうかしらと思う本であり、でも読もうかなとは思わない。それは、翻訳の問題というより、『フィネガンズ・ウェイク』なんてたぶん素人の読む小説ではないので、ふつうにいったら読めるしろものではないはずでそれを読めるしろものでなく訳したら柳瀬訳になった、みたいなことではないかと思う。じつは、学生時代に、語学の授業で読んだ戯曲の中で、スノッブなヤなヤツみたいな登場人物が、愛読書は『フィネガンズ・ウェイク』とかいう台詞があって、そういうものかとおもって、古本屋でペーパーバックを見つけたときに購入しておもしろがっていた。なので、原書は持ってるので、翻訳も持っておきたいのだけれど。でもいずれにせよ読めるしろものでないのだから、飾りで持っておくなら原書だけでいいかなという気もして。
で、柳瀬という人の訳文で、読んだのというと、ごたぶんにもれずルイス・キャロルってことになり、そうするとわたくしは柳瀬訳の『アリス』は嫌いなのである。これはもうしかたない。ジョイスじゃなくて『アリス』なんだから、さらっと書いたことばあそびをいちいち訳し込まれたらうるさくてしょうがない。訳者の文体が前に出てる感じ、っていうか。俺が柳瀬だ!俺が訳してるぞ!といちいち強調してるような文体はきついなあ、と思う派である。
まぁ、たとえば村上春樹訳のなんとかかんとか、なんてのも、それはそれで村上春樹文体がおもっきし主張してるので、そのへんの嫌味はにてますね。(アップダイク?)
ふと思ったのは、柳瀬訳の村上春樹、っていうのを読んでみたいような読みたくないような。ということ。