『暴走する「地球温暖化」論―洗脳・煽動・歪曲の数々』買おう。

こちら(頭を冷やそう。 | 女子リベ 安原宏美--編集者のブログ)で知った。

その流れか、
先日、夜中、寝ようかと思いつつちょっとテレビをつけたら『朝生』をやっていて、「?テーマなんだっけ?」と思っていたら、地球温暖化、だというので、ん?もしかして薬師院さん出てるかな?と思ったら、出てはったんで、ちょっと見てたのだけれど、
なんか、
賛成派科学者vs反対派科学者、が、データやシミュレーションの方法論のことでお互いに居丈高に言い合っている。
ころあいを見計らって政治家のひとが、なんとかかんとかの第四次報告書だかなんだかは権威があるんだ、そこで決着がついたんだ、世界中からなんびゃくにん(だっけ)の科学者の代表が集まって、いちまんぼん(だっけ)の論文を集めて読んで出した結論なんだ、その論文というのも、「「ペア」レビュー、査読っていうんですか?」をされて「『ネイチャー』など」に載っている権威のある論文ばかりなんだ、とか言って、それから、結論が出るまで黙って待っていて本当に事が起こってからでは遅いのだ、予防的措置なのだ、と言うので、
なんだか、いつもながらの構図だなあ、と思えてきて、
そこに向けて田原某が、「薬師院さん、それじゃあ温暖化論を言うとなにが危険なの」とか怒鳴るように言うんで、
なんか、ちゃうなぁと思って、夜中なので、寝た。
なので、自分が見る前の番組の展開も、自分が寝たあと番組がどうなったのかも知らないで5分ぐらいチラ見しただけなのだけれど、
社会学者がこういうところに登場するとして、何か言えるとすると、それは、「温暖化論は「危険」だ」と「警鐘を鳴らす」、みたいなやくわりになってしまうのだろうか?構図的に?というかんじなのだ。
なんか、「買ってはいけない」みたいっていうか、陰謀論を言いふらしている人、みたいじゃないですか。
しかし、
地球温暖化論への挑戦

地球温暖化論への挑戦

この本の薬師院さんのスタンスって、そういう感じともちょっと違ってたんじゃないかなあと思う。
一方で「科学者」が、データだのなんだのについて「科学的」な議論をしていて、それにはなかなか「決着」なんてつかない(あるいは「決着」がつかない、というフィクションの上で科学は成り立っている)。
もう一方で、「政治家」の人たちは、そういう「科学者」の議論が「決着がつかない」ことを見越して、あるいみではそれに対する政治の「優位」として、じぶんたちは早々に「決着」をつけてしまって(そのために、てきとうに科学の権威だのなんだのに言及しつつ)、もう一方で、「事が起こってからでは遅いから予防的措置をするのだ」というふうにして、ものごとをすすめていこうとする。
「少年犯罪」でも「メタボリック」でもあれやこれやでも、構図としておんなじだなあ、というかんじ。
そうすると、社会学者(というのも科学者なわけですよ!)の立ち位置というのは、どのへんなのか。
たとえば、田原的『朝生』的にわかりやすいのは、上記の構図の中で、「買ってはいけない!」「陰謀だぞ!」みたいな警鐘を打ち鳴らす、みたいな役割なのだろうけれど、
そうなん?ってかんじがする。
上記の構図そのものを、知識社会学的に分析しますよ、というのが、たぶん、基本的な立ち位置であるはずなんで、温暖化論云々は(あるいは、少年犯罪云々とか、メタボリック云々とか、まぁ薬害でも年金でもおなじことなのかもしれないけれど、ようするにそのたそのたの社会問題そのものは)、その知識社会学の結果として、私たちがどう判断するかにゆだねられる、ということなんじゃないかしらと思う。
まぁたんじゅんなはなし、「民主主義」なわけですから、ひとりひとりの市民が、ちゃんと判断しよう、そのためには、知識社会学的に見て歪んだ構図では困るね、というあたりの立ち位置になるんではないかしら。と思う。