なにごとかが起こってるよなぁ。『KKKベストセラー』。

KKKベストセラー

KKKベストセラー

まぁ、小説なのだけれど、全力でサボタージュしたように見える。
小説トリッパー』の連載だったらしいのだけれど、その連載が始まったときちょうど島田雅彦朝日新聞の連載で中原に言及して、その島田の書きぶりがいかにも島田らしく嫌らしくて、それで中原がぶち切れて、もうこんな出版社の雑誌に小説なんか書けるかとばかりにまったくサボタージュのような呪詛の繰言みたいなことで枚数を埋めてそれで連載放棄?打ち切り?になり、そしてその2回分だけの連載分に「あとがき」と称する島田へのぶち切れた小文を付して、それが本になった、というようなのがことの次第らしい。
本にはCDが付いていて、「KKKベストセラーのテーマ」という曲が入っており、これを聴きながら読むといいと思う。自分は読み終わってから聴いたのだけれど。

ところで、amazonのレビューを見ると、この本に「評価が高くないレビュー」というのが出ていてちょっとおもしろい。

断筆宣言(笑)
そんなに「作家」が嫌なら、わざわざ断筆宣言を1800円+税で売り付けるなよ(笑)ネットに載せれば十分だろ?知性と品性のかけらもないわ。
・・・
これが本当に投げたくなる、または燃やしたくなるほどの本と呼ぶのもおこがましい駄文の塊だね。ああ、それがこいつの狙いか。私って馬鹿ね(自嘲)
・・・
これを定価で買った人、ご愁傷様。アサヒる新聞は常に正常運転ですな(笑)...

とか

文学界の‘自爆テロ
うかつにも本書を定価で買っちゃってしまい、小説としては破綻している著者の愚痴を読まされることになっちゃって、せめて付属のCDに期待したところ40分以上にもわたって著者(?)の何の工夫もない‘心の叫び’的ノイズミュージックを聴く羽目に陥っちゃった読者にお悔やみを申し上げる。
ちなみに著者は知らないようだが島田某は自称皇室御用達小説家である。

とか。
で、両者に共通しているのが、この本を「金を払って買う」ということに言及しているってところ。で、それはこの本の中で中原が繰り返し書いていた数少ないことの一つでもあるわけで、つまり、話のつじつまは合ってるのである。
中原が繰り返し愚痴ぐちと書いていたのは、書いたものが金と交換されるということで、そのために書く(ことをやめられない)のだけれど、それが不快だ、ということだったと思う。金をもらうのがいけないということではなくて、いかにも当たり前のように、書いたものと金とが交換される仕組みが成立していること(そこから派生して起こるもろもろの「当たり前のこと」)が不快、ということだと思った。だとすれば、その不快を表現するには、金と交換され得ないものを流通させてしまうこと、ではないか。で、その目論見は成功したわけで、だから、「金を払って買う」ことの「当たり前さ」を踏みにじられた感じた人たちが激昂した、ということではないか。
じゃあ、逆に考えて、この読者の人たちが満足するようなものを書く、ということだってありえたわけで、ふつうの著者たちはそういうことを当たり前にやっているわけで、つまり、それらしいことをそれらしく書く、ということさえやっていれば、この読者の人たちも、まぁごくふつうにおもしろかったとかつまらなかったとか感想は持つにせよ、こんな種類の激昂はしないはずなんである。ふつうの著者たちとふつうの読者たちのあいだで成立している、それらしいことをそれらしく書き、それらしく感想をいだいたりする、という当たり前のやりとり − そのやりとりが成立する前提として金のやり取りがあって − という構造が、いかにも気持ち悪い、ということなんじゃないか。
で、その気持ち悪い構造から派生してくる「当たり前のこと」の中には、たとえば、作家が文化人面をして新聞に手すさびのエッセイなど書き散らして読者がそれを当たり前のようにありがたく読む、というようなことも含まれるだろう。あるいは、作家が(批評の能力が備わっているわけでもないのに)他人の作品を誉めたりけなしたりする、審査員になって文学賞など与えたりする、それを当たり前のものとして誰もが見ている、というようなことも含まれるだろう。そういうわけで、島田、なわけである。島田のエッセイのいやらしさのうちには、自分が推したから中原は三島賞を受賞できたんだ、現代日本の小説家としても自分は中原の先輩だぞ、という風なところがちらちらしていて、それを、新聞の手すさびのエッセイなんかに書いたりして読者に受けようなんていう風なところもちらちらするわけで、そうすると、中原がこういう形でこういうことをするというのはよくわかるし、また、その矛先が朝日新聞にも向けられるというのもよくわかる(作家のエッセイなどで紙面を埋めて商売をしている新聞、で、そもそも「朝日文化人」などというのも(岩波文化人と並んで)あったような気もするし、まぁそういう文化権威みたいなものと持ちつ持たれつの気持ち悪い構造が、たしかにそういわれれば、あるわけである)。
なわけで、中原のこういうのを「私小説」と呼ぶのは、やっぱり筋悪で、どっちかというとメディア論的なのだと思う。
ついでにいうと、付録のCDに関しては、金返せと思うかどうかはよくわからなくて、ノイズミュージック好きなら喜んで金を払うような気はする(なので、朝日はCD付きにしてちゃっかり元を取ってる気もしなくもない)。で、ノイズミュージックのアーティストとしての中原昌也のスタンスがどういうものなのか、よくわかってないので、なんともいえないところはある。でも、「心の叫び」と単純に言えるものでもなさそうな気はしなくはない。
手元に持ってる某オムニバスCDの中の暴力温泉芸者名義のトラックは、けっこうモンド?なかんじだったし、以前、学生さんに紹介してもらったHAIRSTYLISTICS名義のアルバムはもうちっと聴きやすくて、まぁそれよりは荒れてるなあとは思ったけれど。でも、単純に「心の叫び」を発表するタマではないですよ。