『ミシェル・フーコー』読んだ。女子的なと言ってしまいたいよさ。

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

ミシェル・フーコー: 近代を裏から読む (ちくま新書)

フーコーの穴』の人が新書を出すというので、待って買った。フーコーの訳書というと自分が学生の時読んだのは、白い装丁のみすずと渋い装丁の新潮となんかよくわからん黄土色の装丁の河出から出てた数冊の主著たちで、しかしその後、色とりどりの装丁の『思考集成』のシリーズが筑摩からドーンと出て、またコレージュ・ド・フランス講義が白くて太い本のシリーズとしてどかどかと同じ筑摩から出て、物量的にすごいことになってる。で、フーコーについて見通しが良くなっただろうともいえるけれど、フーコーという名前でもって語られることがらの視野がずいぶん変わったなあと思っていたものだけれど、『フーコーの後で』という論集(著者も論文を寄せている)とか『フーコーの穴』なんかで、おお、と思っていた。のだけれど、この人はきっとものすごくまじめで怖くて重々しい人に違いないと、主に名前の字面から先入観を持っていて、その勢いでこの新書本を読んだというわけである。
で、フーコーの主著『監獄の誕生』をていねいに読むことでフーコーを紹介するというこの本は、たしかにあのフーコーのあの本をていねいに読むわけだから、新書本っていうには重い記述があったりもするわけで、読むのに時間がかかったわけでもあるのだけれど、文章と著者の人についての印象は、こういう言い方も政治的にどうかと思うけれど、ところどころ女子的なと言ってしまいたいような冴えがあると思った。ていうか、金井美恵子的なニュアンスでいうところのオヤジが書いたフーコー論とかアンチャンが書いたフーコー論とか、そういうのとは違うかんじがした。しょうもないところでいうと、「主権」という概念を説明しているときに不意に顔を出すベルルスコーニ首相とか、カール・シュミットを評した註の文章とか。それでもって、「ベルルスコーニって!そうだよアハハ!」みたいに言うような人がふだんじつは感じているかもしれない不快とか自由とか希望かもしれないものへの感覚でもってフーコーと共振しているようなところがあって、それはオヤジやアンチャンが書いたようなフーコー論に期待できないノリかもしれないんである。と思った。