通勤電車で読む『性同一性障害のエスノグラフィ』。

性同一性障害のエスノグラフィ―性現象の社会学 (質的社会研究シリーズ)

性同一性障害のエスノグラフィ―性現象の社会学 (質的社会研究シリーズ)

第一部のほうは、理屈篇ってかんじで、「一瞥による判断/手がかりによる判断」という「二つの「見る」仕方」を区別しないとだめだよ、しかも一瞥によるほうをちゃんと捉えないとだめだよ、という指摘。これでゴフマンやガーフィンケルにまでダメ出ししている。それは言われてみればもっともなことだと思われるけれど、若干出落ち的なというか、なるほどそらそうやわなぁ、はい、というところで感想が止まった気もする。ひとつには、この研究で扱われているのが「性同一性障害」という、まぁ派手な現象っていうか、大味な現象っていうか、当事者がいろいろ苦労したり工夫したり、いろいろ自覚したり、しがちな現象で、それをまたインタビューで言語化してもらって聞き出しているわけなので、二重に自覚的なところを掬い取るわけで、そうすると、こう、ふつうの男女が意識せず〈ごく自然に〉「性別を「見て」いる・あるいは「男してる/女してる」みたいなところをそのまま掬い取るような研究方法ではないんじゃないか、というふうにやはり、思うわけで、それはまぁたぶんそういう突っ込まれ方は百も承知の上でやっていて、もちろん現象として「性同一性障害」というのは知るに値する現象だからこれをやるのだ、ということかもしれないし、あるいは性同一性障害エスノグラフィーが〈ふつうの〉性同一性現象のワーク研究になりえないわけではないよ、ていうかなってるのに読み取れないのはどうかしてるぜ、ということかもしれないのだけれど、まぁいい。
第二部のほうは、エスノグラフィー全開で、結構いい感じだと思ったのは、まぁデータとしてはインタビューのやり取りの会話記録なのだけれど、著者の人=インタビュアーがけっこうゆるい感じでてきとうにブレながらインタビューしているところ。それでも、誠実っていうか、ちゃんと話を聞くぞっていう気持ちがちゃんと出ていて、だからインタビュイーの人たちもちゃんと喋ってくれているかんじがでている。そうすると、当事者のびみょうなニュアンス、たとえばTSとTGは違うしFtMTGでビアンのタチなんてありえないとか、女装は認めるけど自分は違うとか、なんちゃってが増えてる今ってちょっとどうなのよ、本人のためにどうなのよだし、自分たちにも迷惑っていうか影響あるしどうなのよ、みたいなごちゃごちゃした話を丁寧に聞き取れるわけだし、そうするとそれをカテゴリー分析でうまいこと整理することもできる、エスノメソドロジーの出番もまわってくるってもんである(まぁ、会話から意味を読み取るときにちょこちょこ会話分析風の「ここで筆者はなんとかかんとかの理解を提示している」とかなんとか、みたいな言い回しが出てくるのはべつに要らないと感じながら読んでたけど)。なんていうかまぁ、たとえばのはなし、めちゃくちゃ高圧的なインタビューをやって強引な解釈から押しつけがましい結論を導くような論文を書いたり、それをまた高圧的に「自己分析」とかやってこんどは「インタビューの権力性」みたいな、悪いのは近代科学だみたいな?以前にもまして押しつけがましい結論の論文をもう一本書いて、押しつけがましい論文がなんだかネズミ算式に増殖、みたいなこともこの世のどこかにはありそうで、そうすると、この本みたいな、ゆるいエスノグラファーにしてきっちりしたエスノメソドロジスト、というのは、まぁ好感が持てる気がする。
でもまぁそれはそれとして、じつはいちばん「おっ」と思ったのは、この本の中で言うと小さなエピソードかもしれない、著者の人がどっかの喫煙所かなんかでしゃがんで煙草をふかしてたら遠目に男だと思われた、というくだり。わたくしがこの本を読んでて、自分なら性同一性障害とかじゃなくて「ごくふつう」の日常の中で男女ってふつうにゆらぐよねみたいなところを見たいなあと思っていたので、そのへんで、この小さなエピソードの周辺に引っ掛かりを感じた。ていうか、このまえ高校で模擬授業やったときに、ふつうに生徒さんに「はい、そこのはじっこの彼」とか言っちゃって、なんか固まってるんで「ん?」と思って、近づいて、「あれ?」とか言っちゃって、「ん。あ?彼女なん?」とか派手に聞き直してしまって、一瞥によるどころか手掛かりによる判断でも手際よくいかず、とてもかわいそうなことをしてしまって申し訳なかった覚えがあるのである、ていうかいやー、制服の夏服で、席に座って上半身だけで、たぶん部活やってて短髪で、みたいなちっちゃい女子だったら、男の子かな?って思うぞ?いや思いませんね、すみませんです。あーあ。