通勤電車で読む『論文って、どんなもんだい』。鹿児島大桜井芳生先生のサイトで知った小論文参考書を十数年目にして読む。

論文って,どんなもんだい―考える受験生のための論文入門 (駿台受験シリーズ)

論文って,どんなもんだい―考える受験生のための論文入門 (駿台受験シリーズ)

このまえ初年時の作文教育的なあれで学生さんのレポート書くのを授業でちょっとやったときに、まぁあれこれ思うところあって(http://twilog.org/2013_ishitobi/date-170611)、まぁひとことでいうと、

「自分が興味のあるテーマで」を入り口にすると、「自分の思ってること」から進まない。でも論文は他人に伝えるもの、「一般的に言えること」を書くもの。なので、「他者からの反論」の契機を含んだうえで「それを超えて言えること」を書け、と言うべき? 
しかし考えてしまうのは、レポートのテキスト内にせよ、ディベートにせよ、あるいは頭の中の自問自答にせよ、「論争を経て弁証法的に真理に向かって上昇する」みたいなスタイルになんか実感が持てないよね(学生さんにせよ世間一般にせよ)、それが普通だよね、という感触もある気がすること。

みたいなことだった。それで久々に、20年ぐらいまえに読んで感激した鹿児島大桜井芳生先生のサイトの文章を読み返したわけである。
「卒論執筆のための【最終兵器】「テーゼピックアップ→ツッコミ法」(桜井研究所通信)
tukomi

そこで、その中で言及されていた、駿台の小論文参考書?があり、なにせ20年ぐらい前はAmazonの中古で入手するなどというのもあまりやってなかったので手に入らなかった − んだとおもうけど、手に入れて読んだのかな?忘れた − ものを、ともあれ手に入れて読んだ。受験小論文の書き方を、まさに弁証法的に組織していくという趣向で、しかも全体が父と娘の対話篇になっているという、まぁおかしな受験参考書である。で、読んでみてどうだったかというと、よかったと思いつつ、学生さんにこれを読めといったら(粘り強い対話篇なので)退屈とかいってすぐ放り出してしまうかなあと思い、それはつまりこの本の中の言い方をするならば「考える」ことを放棄することなわけだけれど、それをいけないと感じるか、考えるのはめんどくさいから平気で放棄しちゃえと感じるかというのは、このさい微妙だなあと。まぁそのへんあらためて↑この前考えてたことに戻るわけなのだった。