通勤電車で読む『科学を育む 査読の技法』。例によって理科系のおはなしだけど、ざっくばらんでおもしろい。

これも例によってTwitterで見かけたのだと思う。著者は基礎生物学?の人で、その学会誌?に連載してた記事をまとめたもの。で、査読についての座談会とか、あと、査読でよく使う英語の表現の例文集(もおもしろい)。
でまぁ、自分はいまあんまり査読の役をやってないので気楽に、そうそうとか、あるあるとか、面白がったり反省したりしつつよむわけだけれど、これ、だから、理科系のおはなしなので社会学とか教育学とかだとお話がまた変わってくるなあというのもとうぜんあって、そのへんは文科系も後追いをしていくのだろうと思うし、まぁそれについては自分は世代的にもあって、うーん、どうなの、と思っているくちである。論文を書くということが、査読論文業績ポイント獲得ゲームみたいになってもつまらんなと思うし、そのゲームのための道具として学術雑誌とか査読とかがあるというのは、転倒してるなあと思う。いつもぼやくわけだけれど、研究の世界というのがあるとして、いま、何が足りないかというと、コミュニティがないよなあと。なんかこう、研究についてお互いに書いたり読んだりざっくばらんにああだこうだ言いあうようなコミュニティというのがあって、その中で新しい知見が産まれるとか、おかしかったら修正されていくとか、で、そういうことをしながら研究者が育つとか。具体的には、ざっくばらんに研究のはなしができる研究会が成立する土壌、というのがひとつのイメージだけれど、それがなりたってないかんじがするし、成り立たなくなる方向に行くよなあ、というのもわかる。自分がかかわったことのある雑誌はいずれも、本書でよくないとされてるところの「お節介」(論文をよりよくするための査読コメント)がむしろ基本的なトーンになっていて、まぁそれで自分の任期中にも学会賞の論文が出たりしたし、現状それはいいことだよなあと思っている。同時に、投稿された論文をよりよく、みたいなのは、まぁ、自分がかかわったうちのひとつは同人誌だったので意図的にそのような体制になっていたともいえるにせよ、査読にはやっぱり荷が重いわけで、べつの雑誌の編集委員を終えるときにはそのように言った(つまり査読の役目は掲載の可否を判断するという一点であって、それを超えることはもちろん指導教員の指導とか、学会コミュニティとか、研究会での議論とかじゃないとどうしたってうまくいかない、隔靴掻痒で、お互い匿名のレターであれこれ書きあってるより、ふつうに会ってしゃべって解決のほうがいいはずですし、うんぬん…)という覚えもある。
ともあれ、この本、肩の力を抜いてさっと読めて面白かった。