通勤電車で読んでた『建築家として生きる』。

建築家というのがどんな人なのか、知ってるようで知らないわけである。たとえばマイホームを持とうと思っても、テレビで宣伝してるなんちゃらホームとかのハウスメーカーの作る家を買ったりすると、それは建築家の設計した家ではないことになるらしい。また、工務店にお願いして大工の棟梁に建ててもらってもそこには建築家はいないらしい。建築家、というのは、自分の名前で設計して建築物を「作品」として作るひとのことのようなのだ。なるほどそれなら自分には縁がないだろうなあと思う。自分が毎日生活して人生を生きるのに何が悲しくて他人の「作品」の中で暮らさなくてはならないのか、と思わなくはないけれど、まぁ好き好んで誰かの「作品」の中で暮らしたい、そのために金を払いたい、という人たちが世の中にはいるということで、そういう商売が成り立っているということで、まずはそういうファッションデザイナーの建築版みたいなしごとが職業として成り立ってるんだーと思って本を読み進める。でまぁ、社会学という目線で見ればそういう職業は、いかにも興味深いわけで、その人たちがじっさいにどんな活動をしているか、どんな意識でやっているか、ぶっちゃけうまくいっとるのかいな、というのは、まぁおもしろいわけである。で、この本、著者の人じしんがいちどは建築家をめざした(二級建築士の資格を持っている)社会学者の人で、その目線から、たくさんの、ふつうの(つまり一握りの有名スター建築家ではない、地方でふつうに活動している)建築家の人たち(や、建築家ではないハウスメーカーや建設会社の設計士の人たち、この人たちの言うことはすんなりわかる)にインタビューしたりして(また、著者自身の建築家挑戦ストーリーなども間に挟みつつ)、職業としての建築家の世界を描き出している。で、前半は、建築家のいかにも微妙なポジションやその活動ぶりや意識についてブルデューを参照しながら描き出し、後半は、後期近代という時代のなかで職業としての建築家がどのように変容していくのかをギデンスを参照しながら描き出している。
(あ、そうか、あとから気づいたが、本の中に『結婚できない男』のあべちゃんの名前は出てきて、あれはなるほど「建築家」。で、タイミング的に本書では参照されなかった『大豆田とわ子』は、あれは建設会社なので、建築家ではないわけだな。でもいつか自分で家を設計して…みたいな夢を持ってたりするのだな。)(ちなみに、「ビフォーアフター」的なテレビ番組で「リフォームの匠」として出てくる人たちは、建築家の職業倫理にある「設計と施工の分離」に反してるので、建築家の世界では風上にも置けない恥ずべき逸脱者であるらしい。むつかしいものだな)(ちなみにわたくしは「ビフォーアフター」も好んで見てたし、けっこうお宅建築拝見系の「住人十色」とかもよろこんで見てて、狭小住宅の工夫された建築とかテレビで見る分には大好物)。