このところ通勤電車で読んでた『「居場所のない人びと」の共同体の民族誌』。

「居場所のない人びと」の共同体の民族誌

「居場所のない人びと」の共同体の民族誌

あるとき、あれやこれやの流れでもって、なにかタイトルを思いつこうということになり、「居場所のないものの共同体」というタイトルはいいんじゃないだろうか、『明かしえぬ共同体』とか『無為の共同体』とか『何も共有していない者たちの共同体』とか、そういうタイトルを踏まえつつしかも適当に投げやりでしょうもない感じで、しかも共同体論が同時に他者論であるようないみでの極限的な共同体論というのにはそれなりに合ってるんじゃないかしら、というかんじで、心の中でそれなりに気に入っていたのだけれど、ふと予感がして検索をかけてみたら、先に使われていましたので没。
しかしおもしろそうなので読んでみたというしだい。「ユリノキ村」(仮名)という実在の施設というか共同体があって、そこには創設者の緒方師(仮名)のもと、今の日本で「居場所のない人びと」(外国人とか精神障害者とか外国人精神障害者とか)があつまって生活を送っていますと。で、その「ユリノキ村」のエスノグラフィーがずっと書いてある本。で、まぁ面白かった。面白いところというのはひとえに緒方師という人で、この人、なんでもうけいれちゃう。サボってる人がいても、なんかトラブルを起こす人が出てきても、その人を責めない。苦情が出ても微笑んで受け流す。規律を求めないし管理をしないし相手を変えようとか指導しようとか教育しようとかもしない。それでなんで成り立ってるのか不思議なんだけど、結局住人とかメンバーとかボランティアとかの人たちも、「緒方さんがああだからねえ・・・」みたいなかんじで「これがユリノキ村よ!」と言い合って苦笑しておわりということになる。なんかそんなかんじで成り立っているようである。
で、本の後半の章では、ユリノキ村の組織としての仕組みを理論的に明らかにしようと、まぁしている。で、引き合いに出されるのがゴフマンの『アサイラム』、Total Institution論。でまぁ、あれやこれや言って要するに、Total Institutionは管理統制するけれどユリノキ村は緒方師の方針で管理統制がぜんぶなしくずしになってます、つまりユリノキ村はTotal Institutionではないです、ということに落ち着く。じゃあべつにTotal Institutionなんて引き合いに出さなくてもいいじゃないかという気もする。また、その後の章では、有名なコミューン、「山岸会」と「心境」(というのをはじめて知った)というふたつと比較して、ま、結局、山岸会も心境もなんらかのコントロールをしているのにユリノキ村はしていない、というところに落ち着く。じゃあ山岸会も心境も引き合いに出さなくていいじゃないかと思いつつ、結局のところの問いは、ユリノキ村が統制管理しないのはもうわかったから、じゃあなぜどのようにしてユリノキ村は共同体として成り立ってるのだ?というところのはずなんである。するとさいごのさいごになってちょろっと、それは、ひとつには彼らがほかに居場所がないから、そしてより積極的には彼らがここで自尊心を回復されるから、また相互に対等でいられるから、だから居心地がいいのだ、なぜそんなことが可能かというと、緒方師がそのようにしているからですよ、ということになって、ちょっとあれれと思う。
というわけで、まぁ面白かったけれど、この本はたぶん「共同体論」の本だと思って読むとびみょうに肩透かしで、なにか極限的な共同体論の一連の議論につらなるものをこのタイトルに期待したことからすればちょっとものたりなかったけれど(なにしろつまり、「外には居場所がない人たちのための、居場所がユリノキ村ですよ」というおはなしなので、べつにこのタイトルはパラドックスではないわけである)、しかしそれはまぁこっちの個人的なアレであって、この本、エスノグラフィーとしてていねいで面白いということでいえば、面白かった。