通勤電車で読む『自己観察の技法』。エスノメソドロジーを参照しつつエスノメソドロジーではない少しエスノメソドロジー由来の自己観察の技法。

つんどくの中に見つけて、まぁこういうのも買ったんだなと思いつつ電車で読むためにカバンに入れて帰って電車で読みかけたら、謝辞を見て驚いた(というかこの本を買った理由がそのあたりにあったのかとわかった):

謝辞
筆者らは、この場を借りて以下の方々に謝意を表したい。まずUCLAの全教員、とりわけハーヴェイ・サックス、ならびにジョン・ホートン、ワーレン・テン・ホウテンの三名に対してである。わたしたちの著作は多くの人からインスピレーションを受けているが、なかでもハーヴェイ・サックス、アーヴィング・ゴフマン、ハロルド・ガーフィンケル、ジョージ・サーサス、スティーヴ・リスキン、エマニュエル・シェグロフ、ハワード・シュワルツ、マリリン・ガーバー、マーティン・カラシュ、ジョン・ヘリテージらに触発された。愛する家族と友人、そして研究仲間の忍耐強いご支援に感謝したい。

この謝辞を見ると、エスノメソドロジーどまんなかの本が始まると思うのだけれど、本文が始まると意外と全然そんな感じにならない。この本は著者たちの開発したらしい「系統的自己観察」という研究法のテキストのようなのだが、それはつぎのようなものらしい:

研究者はインフォーマントに、普段と変わらぬ行動をとるように指示する。彼らはいつも通りの生活をしながら、研究トピックとされた事象が生じた瞬間を即座に観察しなければならない。インフォーマントは、その事象が現れたら、観察に集中するよう指示される。たとえば、研究トピックが「賞賛を控えること」であるとき、インフォーマントは次のように言われる。
あなたがいつもしているように、ふだんどおりの生活をしてください。自分が相手を褒めることを控えていると気づいたら、それについて観察を始めてください。意識して賞賛を控えたりすることがないよう、行動を変えることなく、ただただ観察してください。
自分が称賛を控えていることに気づいたならば、それを評価することも疑うこともしないでください。
ただ観察すればよいのです。

てなぐあい。
このようなやりかたでデータを得ることの利点はなにか:

社会生活は、それが生じた視点とレベルで記録、分析されなければならない。研究者の意識的ないし無意識的(理論的)仮定は、インフォーマントが自分の行動や経験に与えている意味を見逃したり、無視したり、潤色したりする可能性がある。そのため、系統的自己観察では、データはインフォーマント自身の言葉で記述される。
系統的自己観察データは、観察対象者と観察者とが同一人物であるため、できごとの直接的な報告を産み出す。そのデータに記録されている意味、観点、感情は、研究者が知りたいと思っていることそのものである。・・・

うーん、えーと、そうかー。
本文の中でゴフマンやガーフィンケルやサックスが参照されたりする。えーとー、ひょっとしたらこういう流派もエスノメソドロジーでありうるのかなあと疑いつつ、いやーでもこれはちがうだろうと。
いや、べつにエスノメソドロジーでなくても使える研究法ならば構わないじゃないかと思わなくもないけれど、しかし、みょうに方法論みたいなことを言ってて、みょうな科学主義みたいな感触もあり、じゃあこの方法論でなにかやりたいですかと言われたら、しないなあと、なんかこういまいちだなあという読後感。