通勤電車で読む『先生、どうか皆の前でほめないで下さい』。モチベーション論の人の書いた若者論。管理社会論の「dividual」の議論をちょっと連想した。

流行ってるみたいだなと思いつつ若者論かーと思ってスルーしてたが、同僚の先生に勧められて読んでみたらおもしろかった。まぁ、若者論というのはなんであれ「いまどきの若者」をいっしょくたに言っているじてんで大雑把だし、だいたい昔から若者について語られる評価はにたりよったりで、つまりいまの大人だって若いころは同じことを言われていたんだからようするに若者論なんてあんまりいみないとか、また、往々にして大学の先生は自分の学校の学生ばっかり見て言ってるのであてにならない(そもそもいまどきだって4年制大学進学者は半分ちょっとにすぎない)。それはたぶんこの本でも全くあてはまるので(ここに出てくる若者の特徴に、何世代も前のひとであるじぶんじしんけっこうあてはまる自信がある)、差し引いて読んでかまわないだろう、という前提で、これはけっこうおもしろかった。本書の著者の人はイノベーションとかモチベーションとかの研究をやっている人ってことで、関連の先行研究や調査統計なんかも参照しつつ進めているので、たしかにあるていど「日本のいまどきの若者世代」について特徴的に見えることを抽出して言っているようにみえる。また、さしあたり自分が目の前にしている学生さんたちにどうやったらモチベーションを持ってもらえるんかいなと思案の日々をすごしている身としては、とりあえず本書に出てくる学生さん像というのが少なくとも部分的にはそれっぽいかんじがする、というのもある。で、まぁ同調圧力とか自己評価の低さとか指示待ちとかまぁいろいろ言う中で、「自分で決めたことにしたくない」というのがおもしろかった。まぁ、同調圧力で悪目立ちしたくないわけなので、結果的になにかをやるにしても自分で決めて自分から進んでやったという形をとりたくない、というのはそうなのだけれど、これ、ドゥルーズの管理社会論の「dividual(可分性)」の議論につながるかなあと思ったしだい。つまり、規律社会であればindividual(不可分の個人)が成型されるわけで、それは、近代家族でも学校でもまぁようするに主体形成がおこなわれるよ、エディプス的体制の中でとか(学校も教師を父とする疑似エディプス体制ですな)工場の組織の中でとか、まぁ監獄でも病院でもいいけれど、そしてそれは不可分で自己同一的であるということは責任を負う主体でもあるということで、まぁでも近代家族や学校や工場やまぁ監獄でも病院でも、解体されてネットワークに置き換えられていって、個人なり主体なりがシステムの登場人物でなくなり、ネットワーク上をシームレスにコミュニケートされるデータ群としてのdividualがそれにおきかわるよ、みたいなまぁあらすじとして、そうするとつまり、責任を負う主体として形成されなくなりましたね、というおはなしになる。先生とは学校という集団の中でエディプス的な父の形象ってことなわけなので、父に名前を呼ばれるというのはberuf=calling=professionでもinterpellationでもなんでもいいけれど、責任を負う主体として形成されるということであるとかなんとか。というわけで「先生、どうか皆の前でほめないで下さい」というのは、近代家族や学校や工場やまぁ監獄でも病院でも、せっせと解体されて主体化の装置が不要になった管理社会において、もう用済みになってることに気づかない学校の先生が主体化の呼びかけをしてくるぞ、かんべんしてくれ、みたいな構図に、まぁみえなくはない。そして、本書で著者の人はモチベーション論に引き付けて、「内発的動機付け」のはなしをもってくる。つまり、強い動機づけになるのは「内発的動機付け」である、ということで、自己決定なんかがモチベーションを上げるよ、学習なんかでも自発的で自己決定的な学習がモチベーションをたかめるよ、みたいになんとなくいうけれど、逆ですと。モチベーションは外発的に、人に決めて与えてもらう、研修もやってもらう、指示されればまじめにやります、というぐあい。で、ここでまたドゥルーズに戻ると、こんなかんじ:

「不思議なことに大勢の若者が「動機づけてもらう」ことを強くもとめている。もっと研修や生涯教育を受けたいという。…」

というわけで、話は合っているようにみえるわけである。