ところで、あるところに出てきたこういう記述:
ある年の七月、蒸し暑い夕方のこと。私は所用を思い出し、校舎四階の奥にある被服作業室に行った。(・・・)中から音楽が聞こえてくるのだ。それはジャズでもスイングでもレゲエでもなく、とにかく私にはあまりなじみのない音楽だった。五センチほど引き戸を開けて覗いてみると、制服姿の三人の生徒が音楽に合わせて身体をゆするように動かしていた。広い被服製作室の一角にラジカセが置かれ、そこから音量いっぱいの音楽が流れていた。
(・・・)
思い思いに、わけもなく意味もなく、ただそうしたいから狂うように体を動かしているようだった。でたらめに、不規則に、激しく身体を前後にゆすったり、わざと髪を振り乱したり、腕を振り上げ、振り下ろしたり、時には椅子や机を蹴ったりひっくり返したり、足を踏み鳴らしたり、持っているパンフレットのようなものを丸めて壁や黒板やカーテンにたたきつけたりしていた。言葉になっていない大声でわめき散らし、ただただ踊り狂っていた。
(・・・)
狂っているわけではなく、やみくもに暴れているのでもない。彼女らのからだから、有り余ったエネルギーが噴き出し、ほとばしるのが目に見えるように感じられた。もだえるような個性の塊を吐き出しているようにも思えた。何かわからないものに取りつかれ、貶められ、見下され、ぞんざいに扱われ、がんじがらめにされている、その目に見えない鎖を断ち切ろうとしているようにも思えた。自分をいま、ここで解放してやりたい、その思いに忠実に従っているようだった。
・・・
というかんじで、生徒たちがあやしく踊り狂っているのを著者は目撃したらしいのだけれど、その後日談として書いてあったのは、その音楽が、はやってたヒップホップだったよと。で、読んでてあれ?と思わなくはなかった。これが正確に1980-90年代のうちのどのあたりだったかにもよるけれど、地方のある種の高校生がみんなヒップホップにいかれていた時期、というのがあったとして、その姿を見た著者の描き方の文体が、みょうになんだか古く観念的だなあと。なんだか、1960-70年代とか?のジャズ評論とかにありそうな、というか。でまぁ著者のプロフィール的には1950年生まれとある。団塊の世代、ということになって、たとえば1968年を18歳で過ごした人であると思えば、文体が当時のジャズ評論っぽいのは妙にうなづけるなあと思ったしだい。
ところで、じゃあ、『ハマータウンの野郎ども』のポール・ウィリスはというと、1945年生まれと出てくる。で、1970年代、パンクロックの生まれる直前ぐらいのタイミングのイギリスの工業都市の高校の調査で描かれた「野郎ども」、ということになる。まぁだからどうだというわけではない。
ところでそのウィリスが本書の描き出している時代である1991年にどんなかんじだったかということを、志水先生が1993年に書いておられる。とても印象的で、ある種感動的な論文である。
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まぁ、志水先生の論文をリアルタイムで読んだ当時に、ちょっとそれは酷な書き方だろうなあとは思ったものだけれど、それはそれとして、自分的に『ハマータウン』はやはりちょっと図式的に面白く単純に書いちゃってるかなあという印象を持っていて、まぁだから『ハマータウン』には見えていなかった複雑なものを描くぞ、というようなものを読んでも、まぁそらそういうことはあるやろうな、ウィリスは図式的に書いてたんだろうからそこに書かれていないことはふつうあるであろう、ということになってしまうところはある。で、本書はむしろ女版『ハマータウン』だぞということで、同じようなおもしろさと、また、同じような図式性も感じて、まぁ『ハマータウン』のウィリスが結局のところ野郎どもの後日談まで描いていたひねりと屈託を帯びてたのとくらべても、もうちょっと屈託のないかんじで『男社会をぶっとばせ!』の本になってるところはなきにしもあらずかなあ、とは思った。
他方で、あとがきを読むに、この本の始まりはむしろ彼女たちから「H女子高時代のことを本にしたい」「あの時代って、私たちの宝なんだよね」というかんじで、著者に書いてくれという電話がかかってきたんだと。そうであるならば、むしろもっと屈託なく、『ハマータウン』などともいわずに楽しく描き出すこともできたんじゃないかなあ、むしろ『ハマータウン』っていう眼鏡をひとつかけることで、彼女たちにとっての宝物である高校ライフに、妙にシニカルな後味が残ってしまうんじゃないかなあと。まぁいいけど。
あと、やはり女子高のこういうかんじの生徒についての論文として宮崎(1993)を想起した。やはり宮崎論文いいです。
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