『ドラゴン・キングダム』みた。

お正月に今年の1本目ってことで。朝、目がさめてなんとなくみたらなにやらジャッキー・チェンカンフー映画?をやっているというので、まぁちょっと見てみたら、なんかアメリカの学園の負け犬カンフーDVDオタク男子が不良グループにからまれてて、なんやかんやで如意棒を託されてビルの屋上から転落して気が付いたら異世界@古代の中国?に転生してて、悪の将軍の兵たちに襲われている中、酔拳の達人ジャッキー・チェンに助け出され、なんやかんやでジェット・リーとあともうひとり女子とも合流して4人で五行山で石にされている孫悟空に如意棒を返しに旅に出る。みたいなおはなし。まぁ、お雑煮をつくっておせちをたべたりちょっとおとそがわりの日本酒とかにみそ@帰省で買ってきたのをちびちびやりながら見ていたけれど、まぁようするにカンフーと、ワイヤーアクションとCG、あと負け犬オタクのヒョロガリ男子が修行で強くなるとか、なんとかかんとか、まぁ気楽にたのしく見れて、まぁお正月の朝からぽやぽやと見ているのにはちょうどよかった。

帰省の汽車で読んでた『ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方』。

年末に帰省。駅で汽車に乗る前の時間つぶしに書店に入り、『ミシェル・フーコー 権力の言いなりにならない生き方』『スピノザ 読む人の肖像』を購入。往路で『フーコー』のほうをさらっと読み、復路で『スピノザ』を読みかける。『フーコー』のほうは、講談社現代新書の「現代新書100」というシリーズ?らしく、100ページでさくっと、「今を生きる思想」を紹介するというものらしい。

『真夏の夜の夢』『バヤヤ』みた。

つんどくのなかから、チェコのイジートルンカって作家の1950年代の人形アニメ、ということで見てみたけれど、これはなかなか難易度が高かった。『真夏の夜の夢』のほうはおはなしはシェークスピアの『真夏の夜の夢』であり、それを美しい人形アニメでやっている。『バヤヤ』のほうは民話であるらしい。夜の(ような)場面が続き、幻想的で詩的なイメージが続く。あんまり筋を追わないで、人形アニメが美しいなあ、愛らしい人形たちが愛らしい動きをするなあ、と思って見ているぐらいのかんじがちょうどいいのかしらん。

ことしは年末のつじつま合わせがまにあわなかったので46本。
 
2022年・・・46本
2021年・・・53本
2020年・・・50本
2019年・・・50本
2018年・・・48本
2017年・・・55本
2016年・・・45本
2015年・・・30本
2014年・・・87本
2013年・・・46本
2012年・・・41本
2011年・・・31本
2010年・・・21本
2009年・・・17本
2008年・・・38本
2007年・・・73本
2006年・・・62本
2005年・・・36本?

『カラミティ・ジェーン』。たのしいラブコメミュージカル西部劇、あるいは男女の友情は成立するのか。

カラミティ・ジェーン [DVD]

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なにか気楽に見れるものをということでつんどくの中から。ドリス・デイのミュージカル西部劇、というぐらいの知識で、とりあえず録画してたんだったけれど、見てみたら意外にたのしく見れたわけで、よかったわけである。カラミティ・ジェーンというのは実在の女性ガンマンだそうだ。で、ドリス・デイが意外なほど身体の動くコメディエンヌで、歌って踊って、西部の町で誰からも女扱いされない人気者という、じゃじゃ馬ガンマンをいきいきと演じている。で、腐れ縁の親友ガンマンがいて、また、ジェーンが密かに恋する騎兵隊の少尉さんがいて、そして、なにかの間違いでシカゴから連れてきてしまった女優志願の女子がいて、まぁシスターフッドありラブコメありの楽しいおはなしでとてもよかった。

『たのしい暮しの断片 シロかクロか、どちらにしてもトラ柄ではない』読んだ。

年末進行の今週までけっこう気ぜわしかったけれど、どうにか一段落、土曜日でクリスマスである。寒いし、ひきこもって金井姉妹の新刊を読んでいたらおおよそよいのではないかしら。

『コンフィデンスマンJPプリンセス編』『コンフィデンスマンJPロマンス編』みた。

なにか気楽に見れるものということでテレビドラマの劇場版を。フジの月9ドラマでも楽しく見ていたので、劇場版を放映してたのを録画してたわけである。脚本が古沢良太(いま検索して初めて「こさわ」だと知る)で、『リーガル・ハイ』とか『デート』とかもよかった。まぁ、次の大河ドラマがどうなるかはちょっとわからないというか、歴史ものの時代劇にはちょっと軽いんじゃないかという懸念はあるがそれは来年の話。けっこうトリッキーな脚本なのかな、という印象があって、ドラマ版の『コンフィデンスマンJP』も、視聴者が騙されてスカッと爽快みたいなおはなしなんだけれど、そういうのはテレビドラマの50分ぐらいの尺だと成立するけれど、映画で、海外を舞台に、ターゲットも大物、しかも詐欺の規模も数百億だのなんだのというはなしになってくると、はなしのつじつまをあわせるのは大変だろうなあというのはある。まぁしかし、おおよそ楽しく見れた。「天才詐欺師・ダー子」こと長澤まさみのコメディエンヌぶりがとてもすばらしい。
劇場版の順序をよく確認しないで第二作『プリンセス編』を先に見て、第一作『ロマンス編』をあとに見たのはちょっとミスで、ドラマ版や劇場版前作の登場人物が出てくる、というしかけの楽しさとか種明かしの衝撃は少し減ったけれどまぁそれはそれ。話がわからなくなるというほどではない。
そしてこれには言及せざるを得ないけれど、『ロマンス編』の再生を始めたら冒頭に、「三浦春馬さんが本日お亡くなりになりました。謹んでお悔やみ申しあげますと共に、心からご冥福をお祈りいたします。」の画面。メインキャストのひとり「天才結婚詐欺師・ジェシー」こと三浦春馬が亡くなった日の放映だったのか。そしてまたもうひとり、これもメインキャストの竹内結子もその後なくなっている。じつは、いまの時点で見ると、完全な娯楽作であると同時に、見ていてしんみりした気持ちにもなるのだった。

『笑犬楼vs.偽伯爵』読んだ。筒井康隆と蓮實重彦の対談・往復書簡が本になる未来が来たとはねえ。

ふいにAmazonのおすすめに出てきて、おや、と思って購入。通勤電車で、と一瞬、かばんに入れかけたけれど、まぁやはりこれは下宿でゆっくり読もうということで。筒井康隆蓮實重彦という顔合わせの本を読むことになるとは思わなかったけれど、じつはこの本の前半の、大江健三郎をめぐる対談は、雑誌初出の時に、え?と思って買って読んでた。それで、へえ、意外に話が合うのかあ、となんとなく思っていた印象はある。筒井康隆も意外とあまり通ってきていなくて、たしか『虚人たち』が新聞の文芸時評三浦雅士だったか)で紹介されてたのを高校のときかなにかに読んで、で、中公文庫で読んで(おかしいな、文庫化されてたのなら新聞の時評で読んですぐ読んだんじゃないよな…)、なるほどすごいとか思ったのがたしか最初で、そのあとショートショートのを一冊か何冊かそこら読んだのが大学のころで、まぁ世代的には筒井康隆は必修みたいなかんじではあったんだけれど、たしか夏休みに散歩で近所のスーパーの書籍コーナーの少ない本の中で買った『乱調文学大辞典』かな?で「デカダンス」の語釈で「和田アキ子のモンキーダンス」と書いてあったところであまりのばかばかしさに笑ったという印象があるていど。それで、その後、渡部直己『Hello Good-bye 筒井康隆』で批判しているのを読んだり、ちょうどうちの新聞が新聞小説朝のガスパール』を始めたので読みはじめたらさいしょのあたりでは画期的なのかと思っていたのがあっというまになんか思ってたかんじと違うなあという風になって、まぁ院生の時に指導教官のひとりとか先輩とかが『文学部唯野教授』がおもしろいと言っていていやちょっとそれはどうなのかと思ったり、まぁ断筆だの差別発言だのあれこれごたごたしてるのを見たらまぁべつにいいかなとなってきた、たまに実験作のうわさが聞こえてくるけれどもまぁいつか読めばいいか、というかんじで今に至るわけである。それで、蓮實重彦というひとは昔から、誰と対談をしても余裕で成立させてしまうので、筒井康隆と対談しても成立してしまうんだよなあとは思っていたけれど、しかし、筒井康隆蓮實重彦の対談・往復書簡が本になる未来が来たとはねえ。さいしょにさっきいった大江健三郎をめぐる対談が収められていて、そのあと、筒井康隆の『伯爵夫人』書評、そして蓮實重彦の『時をかける少女』論(これは書き下ろし)、そして、表題となった往復書簡。往復書簡でへえーと思ったのは、まぁ筒井康隆蓮實重彦がかなり話が嚙み合っているということで、二歳違いとは言え同世代で、まぁ大阪と東京の違いはあれ、天王寺動物園園長や自然史博物館館長の家庭と、美術史家の大学教授の家庭と、まぁ似たり寄ったりと言えば似たり寄ったりで、女中さんに連れられて映画を見に行ったりなどの経験が、つまり、世代的階層的に共有されているんだなあと。そのうえで筒井康隆がああいうかんじなのは、階層的なものに由来するというよりは、「アプレゲール」だったから、という処理のされ方をして、蓮實重彦はほんの二歳違いではあるけれどアプレゲール世代に遅れた世代なのだ、ということで、話が噛み合って進んでいる。そんなもんなのか、と思いつつ、そういうわけで、筒井康隆蓮實重彦の対談・往復書簡が本になる未来に、その本に書いてあったのは昭和のある時期の階級的・世代的な思い出のはなしなのだった。
それはともかく散髪した。今日は店に入ったら誰も客がいなくてすぐ切ってもらえたのではやかった。ほんの一足違いで次の人が、また数分遅れてまた次の人が入ってきたんでもうしわけなかった。