通勤電車でひさびさに読んでた『はじまりのレーニン』。

大河ドラマの最終回、1年間にわたる歴史劇の挙句の、B級犯罪映画みたいな簡潔なエンディングに戦慄したものだが、冷徹な判断で粛清に次ぐ粛清を断行し革命政権を維持した執権がふと親の顔を見せた瞬間に、その判断の狂いを見咎められたかのように死を与えられる、というのを見て、なんとなく思い出して久しぶりに本棚からとりだして通勤電車で再読していた。

『赤毛のアン グリーンゲーブルズへの道』みた。

世界名作劇場」で見ていたはずだけれど、なにせこどもの頃だからはっきりとは覚えていなくて、全体的な印象とか、あと主題歌のかんじ、エンディングテーマの「走っても走っても、終わらないはなのなみ…」とかは覚えていて、しかしそれいらい小説などでは『赤毛のアン』は通ってきていない。で、高畑勲が監督で、というのは知っていて、あるときBSのアニメ映画枠でやっていたのをなんとなく録画していたのを、積ん読から引っ張り出して見た。で、『赤毛のアン』というのは、赤毛でおしゃべりなアンという女の子がグリーンゲーブルズに住んでいる独身の老兄妹に引き取られ…てところまで、なんやかんやのおはなしが始まる前のところまでが本作で、言ってみれば設定のほんのとっかかりのところ、てっとりばやくいえば1文で終わってしまうところを100分の映画にしている。見ながら思ったのは、これたぶんテレビアニメ版の再編集で、ではこれをテレビでは何回にわけていたのだろう、ということ。毎週日曜夜に1話が30分のはずで、とするとふつうに考えて4話分はあるはず、しかし4話というのはつまり4週間すなわち1ヶ月(まぁ正味は3週間というべきか)、これアンが引き取られるまでのはなしで1ヶ月もつかなあ ー と思っていたらいまみたら6話分だそうで途方も無い。これ、仮に朝ドラでも1週間もてばいいほうだ(最近の朝ドラは1話15分✕5日=75分か)。とにかく、赤毛の女の子が電車でやってくる、村では老兄妹が「孤児院から男の子を引き取る」と言っていて、でも老兄が駅に行ってみると女の子だった、家に連れて帰るあいだの馬車でずっと女の子はうれしそうにおしゃべりをしていた、でも家に帰ったら老妹は家では引き取れないという、女の子は絶望する、でもなんやかんやで引き取ることになりました、というところまで。単純にこれを6話に分けるとして、ずっと馬車に乗っている回とか、ずっと絶望している回とか、いつまでたっても本題にはいらないじゃないか ー とまぁ、当時のことを考えてはいたが、まぁ、当時は、またとくにこの作品は、かなり感覚がちがうのだろうな、という想像はついた。女の子のおしゃべりと想像の世界はいくらでもひろがってストーリーの時間を停滞させる。また、顔の表情であるとか身振りであるとかでたっぷりと芝居をさせる。女の子がドアに駆け寄って庭に出ようと勢いよくドアを開ける、そして、一歩を踏み出すのをふと思いとどまって、力なくドアを閉めて椅子のところまで歩いて肩を落として座る。セリフ無しで、感情の流れを、ドアを開けて閉める後ろ姿の演技で見せるわけで、そんなことをTVアニメでやっていたのだなあ、と、妙な感心の仕方をする。まぁ、ストーリー上の時間はおそらく48時間ぐらい経過するわけなので、それを100分の映画にできるのは当たり前といえば当たり前なのだった(いやまぁ、1ヶ月以上こんなことをやっていたテレビ放映についてはまだほんまかいなという気持ちがあるけれど)。登場時点ではしょうじきかなりイラッとさせるかんじの女の子だったのが、さいごには、引き取ってもらってよかったねというきもちになるのだから、これは成功なのである。

通勤電車で読む『認知症をつくっているのは誰なのか』。『認知症の真実』の人が『シンクロと自由』の人にインタビューして「遊びリテーション」の人が終章を書いてる新書本。

『シンクロと自由』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/11/23/134704)のふしぎな読後感に興味を持って著者の人の本をいくつか手に入れて、さしあたり新書を見てみたら、『認知症の真実』(https://honz.jp/articles/-/40963)の人が聞き役になってる対談本だった。どちらもよさげな本ではあるのだけれど、両者の著者の食い合わせというか、とくに本書の前半は、医療福祉批判というか、かなり暗澹たる気持ちにさせられるけれど(まぁそのあたりは『認知症の真実』のほうで読んだようなことだといえばそれだけなのだけれど)、後半は少し『シンクロと自由』にもでてくる不思議な感触のエピソードも出てきたりして、ちょっと読んでて面白い感じがでてくる。で、最終章が「遊びリテーション」( https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20090120/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20090618/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/03/31/142222 )の人の文章で、けっこう自分が面白いと思ったこのあたりの本の著者の人が勢ぞろいなのだった。

通勤電車で読む『時給はいつも最低賃金、これって私のせいですか?』。よい本。政治シロートのアラフィフ単身女性ライターが立憲民主党国会議員に突撃する。

これ、よい本。著者の人は、アラフィフの女性相撲ライターの人。別に政治についてどうこう発言したがるようなタイプの人ではなかったはずの人なわけである。しかしいまげんざいの社会で生きてることの不安たるや、というわけである。それで、『なぜ君は総理大臣になれないのか』という映画で見た国会議員の人に突撃してあれこれ聞いて本にしようということにする。
不安はカナリアのように弱い者から順に襲っていくわけだし、その不安は本物だし共感できる。国会議員の人は、まぁ立憲民主党の議員さんで、だからまぁ立憲民主党の議員さんの考えみたいなことをしゃべるわけだけれど、著者の人は猛烈に食い下がる。とりすます余裕はないわけだし、必死に勉強して食い下がる。げんに時給はいつも最低賃金だし、コロナ禍でバイトも切られてしまうし、賃貸マンションはどんどん借りにくくなる独身アラフィフだし、まぁ政治家にてきとうに言いくるめられてるわけにもいかないわけである。
特設サイトもできてるのだね。
sayusha.com

『勝手にしやがれ!!英雄計画』みた。シリーズ最終作は孤高の傑作。

シリーズ第6作。最終作である。むかしにこのシリーズを見たときに、最終作がいきなり政治映画になっていて呆然としながら見ていた。紛れもない傑作である。そしてたぶんシリーズを最初から見ていてこそ、本作を呆然としながら見ることができる。哀川翔前田耕陽のまったりユルいチンピラコメディ、B級プログラムピクチャーのシリーズだったはずが、最終作でいきなり、地上げが進んで歯が欠けたように空き地が入り交じる荒涼とした町の町内会の住民運動のはなしに。ヒロインは黒谷友香。その兄が、町内に住んでいるヤクザのおっさんを立ち退かせようとする狂信的な青年。哀川翔はあれやこれやあって青年と知り合い、なんやかんやで立ち退き運動の英雄に祭り上げられ、そこに国会議員も絡んできて、青年は国会議員のもとで青年政治家になる。なんやかんやで哀川翔は警察に追われることになり前田耕陽をひとりのこして町から姿を消す。時は流れて、地上げは進み、雑草だらけの空き地に都心から追い立てられてきたホームレスたちが流入してくる。青年政治家は黒スーツの集団を引き連れてホームレスを狩り立て、排除して回っていて、他方、妹の黒谷友香は住民たちとともにホームレスとの共存をはかる住民運動に身を投じている。そこにホームレスとなった哀川翔が帰還してくる…。シリーズ6作目になって、もう監督は哀川翔前田耕陽をさっさと死なせたい。そんななかで作られた異様な一作。紛れもない傑作なのだけれど、えーとたとえば「ルパン三世」を見ていたら最後に宮崎駿「さらば愛しきルパンよ」で呆然とする、シリーズの夢が絶たれて現実が流れ込んでくる、といったふうの孤高の傑作。

けっきょく、全6作のどれがよかったかと思い返す。第6作はそういうわけで別枠の特別賞。一番はやはり第1作の七瀬なつみ『強奪計画』。そのパロディ的な第5作『成金計画』もすばらしいけれど、パロディと本家を比べるならば本家がやはり一番ということで。さて、残念ながらいまいち弱かったのが第2作『脱出計画』。そうすると、あとは第3、4作のどちらを取るか、ということになるけれどこれは藤谷美紀『黄金計画』の不思議なおとぎ話みたいなところがよかった、仁藤優子『逆転計画』はよく考えたらよくもわるくもバランスの取れたプログラムピクチャーの一作然とした一作というかんじだったかな。まぁしかし、これはやはりシリーズ全体で黒沢清の傑作ってことで。

通勤電車で読む『つらいと言えない人がマインドフルネスとスキーマ療法をやってみた」。

認知行動療法ということでたくさん書いている方の本を、また読む。このかたの言うスキーマ療法というのには、乗れないなあと思っていた(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/12/02/124730)わけだけれど、まぁ読んでみた。まぁ、印象はあまりかわらない。例によって仮想のクライアントさんが登場するわけだけれど、まえの本よりは多少、印象度は悪くないものの、まぁしかし平板なフィクションだなあという印象はかわらない。エリート医者・医学部教授一族の中で落ちこぼれの、開業医のひとがクライアントで、オレ様的&男尊女卑で、しかしよくよく聞いているとじつはDV男で、アルコールと鎮痛剤に依存気味であると。それが、CBTとマインドフルネスとスキーマをやっていくと治りました、みたいなおはなしで、まぁねえ。
で、たぶんこの本のミソは、タイトルの「つらいと言えない人が」というぶぶんで、つまりそういうタイトルにしておけばたいていのひとは自分はつらいと言えないけれどほんとうはつらい人であると思っているので、まぁ、売れるだろうなあと。