東『ゲーム的リアリズムの誕生』、メタフィクション論大力説だなあ。

こないだ学校帰りに、学校の近くの商店街の本屋で購入。電車の中で読んだ。

れいによってむやみに明解感あふれるのだけれど、これはしかしあれですか、メタフィクション論をいまこそ、っていう話でしょうか。
どうやら、いま、世の中には、ライトノベルだとか美少女ゲームだとかいうジャンルがあって、それらはまぁ、作品としていわゆるふつうの見方で見れば類型的でご都合主義的でしょうもないクズみたいな消費物以上のものとしてはつくられていないので、ガキとかオタクとかの財布から小遣いを吸い上げるためだけのものってだけの意味しかないように見られているのだけれど、じつはそういう作品群に、多く、ポストモダン的なメタフィクショナルな仕掛けを込めたものがあって、そのことにこそ注目すべきだぞ、みたいなことですか。
クズみたいな「メタフィクション」的作品がバカの一つ覚えみたいに書き散らされるようになったのだといわれればそうかなと思うし、そういう作品は表面上は類型的物語しか持たないけどメタフィクションという意匠そのものが注目点なのだ、といわれれば、そらそやろと思うし、そういうポストモダン的な意匠の深い意味に実作者は案外気づいていないから批評(「環境分析的読解」という新技だそうだ)がそれを取り出すのだと力説されればそんなもんかねと思うのだけれど、まぁねえ、なんでしょうねえ、そらそやろなあ、と思わなくはない。
まぁそうなんですが、力説されてもねえ、美少女ゲームでしょう?むつかしげに力説してる姿勢じたいがイタいよねえ、という感想を、まぁ、もつ。
ゲームで、マルチエンドのシナリオがあって途中でプレイヤーが「選択」するとそれぞれのエンディングに分岐していく、そんで失敗ゲームオーバーでもう一度やり直し、リセット、みたいなことをしたり、あるいはめでたしめでたし、ゲームクリア、みたいなことになったり、する感触が、あらためて実存主義的なアンガージュマンの理論の読み直しのてがかりになる、というのはおもしろいし、この人が以前から、ソルジェニーツィンだかなんだかとか言いながらそんなことを繰り返し言っていたようなテーマが顔を出しているなあ、とも思うのだけれど、そういうことならそういうことだけ言ってればもっと薄い本でできただろうに、なんか新書本にしてはものすごく太い本でいっしょうけんめい美少女ゲームとかを論じてるので、なんかこう、生理的に、うわーって感じになったりねえ。
まぁだから、その太いぶんで、メタフィクション論のおさらいができたり、作品群への社会学的な構造的読解(さっきのいわゆる環境分析的読解ってやつですね)のぐあいのおさらいができたり、するので、まぁ、社会学的な切り口で消費財としてのカルチャーを分析したいみたいな、いわゆるカルチュラルスタディーズみたいなことをしたい人のお手本ってことでいうと、いいと思うのだけれど。
まぁしかし、メタフィクションってほんとに意匠としては誰でも思いつくし、いわゆる流行としての「ポストモダン」以降にクズみたいなものが大量に産出されているってわけなので、そのことじたいを「クズが量産されているけどメタフィクションだからポストモダンだ」というふうにひっくりかえしてヨイショするってのもなあ、とも思う。意匠だけがあるってのが凄い、ってんじゃなくて、たんに意匠しかないんだと思うし。なんか、ちょうど最近、メタフィクション論的な切り口で映画紹介を書きかけつつ、結局中途で企画が流れてそのままになってるのだけれど、自分で書きながらやっぱり「いまさらメタフィクションかねえ」と思っていたところもあったわけで、なんか、ここまで堂々と美少女ゲームメタフィクションだから考察に値するみたいなことを熱くまくしたてられると、あー、と思う。
ていうかやはり、この人は結論としてはもう少し痩せたほうがですね、おたくっぽくなくなって本の説得力は増すと思う。新書って著者の顔写真が出るので。文章を読みながら、ときどき表紙の折り返しのところの著者近影と見比べて、ああこの人が美少女ゲームとかやってるのかあ、やだなあ、とか思いながら読むことになるので。あと、写真の表情とか服とか、もう少しこう、気持ち悪くならない感じにするといいと思う。誰か言ってあげるとか。まぁおおきなおせわですが。