通勤電車で読む『イエスの言葉 ケセン語訳』。これは意外にもよさげだった。ギリシャ語から訳して、かなり踏み込んだ解釈の訳をしてる。

イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)

イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)

帯にいわく、「被災地の医師がふるさとの言葉で聖書を訳した」と。そうするとなんか、ちょっとぬるいのかなと想像しつつ、しかし良いよという評判を見かけたのでちょっと気になって読んでみたら意外にもよさげだった。
著者の人は、ふつうの町のお医者さんであるということのようで、まぁもとは東北大医学部で先生をやってたのが故郷の岩手県気仙地方に帰って開業したよと。で、どうやら語学が好き、とかなのかな?で、聖書を訳してたり、また、故郷の方言を「ケセン語」として研究したりしてる人、と。で、聖書のケセン語訳なんかをやってるうちに震災が来て、ということのよう。で、ようするにこの著者の人は、ギリシャ語から訳しているわけで、そのさいにけっこう踏み込んだ解釈をしている。この本には、40か所ぐらいの聖書の言葉をとりあげては、ケセン語訳と「新共同訳」を並べて示したうえで、解説の文章を書いている、という。で、解説を読んで、ギリシア語の語義なんかの解説を読むと、なんとなく新共同訳よりいいように思えてくるしかけである。本当にそうなのかは、判断がつかないけれど。
たとえば

悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。(新共同訳 マタイ5.4)

というのは、しかし、「悲しむ」と訳されてるのがギリシア語では「ペントゥーンテス」という語で、ただ悲しんでるというのではなく、人の死を悲しむという具体的な意味が第一義で、しかも動詞の現在分詞なんで、「悼む」行為が継続反復して起きていることを表しているのだ、と。親しい人が亡くなって、その野辺送りで泣いている人たちのことを言ってるんで、きわめて具体的な現実感覚があるよ、と。で、そのような人々のことを、あえて「幸せなのだ」と言い切るところにイエスの逆説的な言い方があるのだ、と。「慰める」パラカレオーは、「そばに招き寄せる」の意、泣いている人を自分のそばに引き寄せて、シッカリと抱きしめるという意味です、だそうだ。というわけで、

野辺の葬送(おグり)に泣いでる人ァ幸せだ。その人達ァ慰めらィる。(ケセン語訳)

となりますよと。ほうほう。
同様に、

柔和な人々は、幸いである(新共同訳)

とされているのは、ギリシャ語でプラユス、ヘブライ語でアナヴという語だと。プラユスは「おだやか」だがアナヴには「貧乏人」という意味があり、常にいじめられ続けても反抗することもできない情けない奴隷根性の貧乏人、という含みを読み込んだうえで、

意気地なしの甲斐性なしァ幸せだ。(ケセン語訳)

となるよ、と。
同様に、

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる(新共同訳)

で焦点となる「義」ということばには、この著者の人は繰り返し注意喚起するわけで、これはけっしてかっこいい正義のことではないよ、それでは意味が反対になってしまうよ、と。そうでなくて、この「義」と訳されているのはギリシャ語でディカイオスュネー、ヘブライ語でツェダーカー、辞書的な意味は「義、正義、公正」「神さまのみ心を行うこと」、であって、それを具体的意味として解釈すると「施し」だよ、と、まぁけっこう踏み込んだ語釈を行う。そうすると、同箇所は、

やさしさをください、やさしさをくださいと、飢えるがごとく、渇くがごとくに求めて得られずにいる人は幸せなのだ。神さまがこの上ないほどにやさしく、やさしくしてくださる。(著者訳)

とも訳すことができるというわけで、それをもとに、

施しにあだづぎそごねで、腹ァ減って、咽ァ渇ァでる人ァ幸せだ。
満腹ぐなるまで食ァせらィる。
ケセン語訳)

おなじく、

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。(新共同訳)

は、

施しィ与ろ、与ろって強請らィる人ァ幸せだ。神さまの懐に抱がさんのァその人達だ。(ケセン語訳)

となるよと。ほうほう。