『居るのはつらいよ』読んだ。はずれなしでおなじみ「シリーズ ケアをひらく」の一冊。

学生のときに、カウンセリングの実習をとっていて、グループワークでエンカウンターみたいなのがあったのだけれど、自分はとにかくしーんとするのがいたたまれなくまた時間がむだになるきがして、どんどんしゃべっていたものだった。それであとで臨床心理の同級生にそのことを言ったら、やれやれという調子で、エンカウンターグループというのはしーんとするときもあるし沈黙を味わうということも重要なのであるということを言われた。そういえば実習の担当の先生にもややそんなことを言われていたような気もするが、それを聞いて、なるほどと思ったのが半分と、しかしそんなことをいって申し合わせたように沈黙しているのも自分的には不自然な気がするからまあいいやと思ったのが半分だった。それでも、ほんとうにカウンセラーになろうという人にとっては、しーんと何も喋らないで何もしないでただ居るということが重要だしそれは難しいことだしだから訓練してその力をつけないといけないのだということはわかったし、なるほどと思った。まぁたとえばカウンセリングなんかで、30分なら30分、じっと黙っているクライアントさんがいたとして、それにたいしてこっちがあせったりいらいらしたりすることなく、ちゃんとクライアントさんに対して気持ち的な意味で向き合いながらごくふつうにスッとその場に居ることが重要で意味があるのだ、みたいなこと。まぁそのようなことはじつはそのときだけでなくてたぶん授業のときにも聞いたような、あるいはそういう本で読んだのかもしれないし、また臨床心理の同級生としゃべっているときに自然にそういう話になったりとか、まぁじつはそういうはなしは、自分のようなちょっと外れたところ(なにしろ、臨床心理の実習や演習に顔を出したり臨床心理の同級生たちとつるんでいたりしたものの、社会学のコースの院生だったわけだし)にいる人間であってさえ、けっこう入り口のほうで目にしたり耳にしたりしていたもんだったわけで、だから、まぁ世代がぜんぜん違うしカリキュラムも授業名も変わっていただろうけれどたぶん同じ教室で同じ演習や実習を受けていたうえに博士号まで取ったこの著者の人であれば「ただ居ること」の重要さというのは、いうまでもなくさいしょからわかっていたことなはずではあるのだろうと思いながら読んでいたわけだけれど、ともあれ、博士号を取得してカウンセラーとして(というか契約上は外来のカウンセリングルームでのカウンセラーとしての仕事が7割のはずが、じっさいはすっかりデイケアのしごとが日常に入り込んでくることになって合計17割に…)沖縄の精神科デイケア施設で働くこととなった著者の人は、のっけから「ただ、居る、だけ」ということに戸惑ったというわけである。まぁ、しかしそこから、その施設の日常をユーモアを交えてこまやかに描きながら「ただ、居る、だけ」について、ケア/セラピーという対を伏線にしつつ論じ、そしてしかしそのデイケア施設の、著者の人にとっての夢の時間のごとき日常は著者の人のいた4年間であっというまに変化して - 少なくとも著者の人がこの職場を離れるといういみで - 終わりを迎えることになる、それはだから、敗北に次ぐ敗北、辛いといえば辛いおはなしなのだけれど、最終章で真犯人の名が明かされたときに、うーんそれはここにきてありきたりだなあと思うか、しかし、ありきたりなやりかたで真犯人の名が明かされさらに問題が未解決であるどころかさらに深刻であることがこれまたありきたりに語られることも著者の人がこうした一連のできごとを語りなおすときにそのようにしか語れないのだと思えばそんなものかと思い、さらにあとがきでこのおはなしの登場人物の人たちについて気になっていたことについてさらっと説明がなされていてそれはまぁそうだなと思い、まぁしかし面白かったのでよかった。