『 “彼ら”がマンガを語るとき、』読んだ。

“彼ら”がマンガを語るとき、 ─メディア経験とアイデンティティの社会学

“彼ら”がマンガを語るとき、 ─メディア経験とアイデンティティの社会学

漫画論というのは、まぁさいしょには若者論というか、ある作品にかこつけて読者世代と漠然と看做される若者について論じる的なものだったのが、それに反発するみたいに漫画表現論というのが出てきて、作品に照準した分析は発展してるけど、読者論というのが欠けるっていうか、読みの多様性みたいなはなしに散逸してしまうよね、というところまでがまえふりで、しかし自分は読者論をやるぞ、漫画を読む経験について、彼らがマンガを語る語りに注目して、ナラティブとか対話的構築主義、あとエスノメソドロジーで分析するぞ、というのがあらすじ。で、語りを分析してみると、マンガを語るとき(や、理解するとき…ここのところの分析は、エスノメソドロジー的な実験をおこなっている…)には、自分の生活史なんかにも言及することもあるし、もちろんマンガのジャンル性とか漫画表現論的な記号次元のあれこれを参照したりすることもあるし、まぁいろいろなことが語りのリソースになるよ、また逆に、自分の生活史とかアイデンティティとかを語るときに、マンガがリソースとして言及されることもあるよ、・・・とまぁこのぐらいがたぶん穏当なファインディングス。それでまぁ、結論の章で、アイデンティティのリソースとしてのマンガ経験、とか太字で書くのは、ちょっと言いすぎのような気がしなくもない。
ところで、一番気になったのは、この本のインタビュイーが子どもでも若者でもなく大学生でもなく、著者の人と同世代から団塊の世代ぐらいまでの、まぁ言っちゃ何だけど中高年の人たちで、だから出てくるマンガも伊賀の影丸とかベルばらとか、パトレイバーとか、まぁ柳沢きみおだとか、CLAMPとか、まぁほぼせいぜい90年代までで止まっている感じがして、なんかこう本書全体を通じて、「いま」感が感じられないというか、まるでマンガという領域が90年代で死んでしまったもののように見えてしまうというか、そんな感じにとらわれた。あとまぁこれはまったく余計なお世話なのだろうけれど、この表紙の色といい表紙のマンガ絵といい、装丁はどういうことなのだろうか、と思った。