通勤電車で読む『在野研究ビギナーズ』。

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

在野研究ビギナーズ――勝手にはじめる研究生活

まぁそもそも大学の同級生で主席卒業だった人もたしか地元に帰ってしれっと県庁かなにかに勤めたはずだし、すごく賢くて教養があって信頼する同級生も大学院なんか行ってもどうせつまらないと言って進学しなかったりもしたし、まぁインターネットを見ていてもかしこい人とか教養ある人とかは世の中にたくさんいるし、以前研究会をやっていた時も現職教員や看護師のひとが院生として参加したり、で論文を書いてまた現場に戻った人もいれば大学の先生になった人もいて、それはまぁそれぞれということでべつに大学で教師をやっている人間だけが特別でそれ以外の人は研究はできませんなどとはあまり思っていないんで、だからまぁ、さいしょのほうの章で、在野だけど研究をやってます、こんなに論文を書いたり本を書いたりしています、というような人たちが登場しても、まぁそうだろうなあ、優秀な人はいるなあ、というふうに、まぁあまり感慨を覚えなかったし、大学に所属しなくてもこんなふうに研究してるんです、こうすれば研究できるんです!みたいなことを言われても、そういうことじゃないんだよなあ、と、ぴんと来ない思いがする。自分的には、ある個人が在野かどうかというよりも、そもそも研究という世界がずいぶんダメになってきている - それはもちろん「大学がダメになってきている」ことにも関連しているだろうし、そういう言い方をすれば角も立たずに共感されやすいかもしれないのだけれど - ほうが大きな問題で、誰かや自分が研究をやるとかやりそびれるとかは、そもそも研究という世界が成り立っていないとできないのだけれどそれが危ういんだからそのほうがどうにかなってくれることが重要で、ある人が在野だったり大学に所属したり研究できたりしそびれたりうまくやったりやれなかったりというような個人的な事情は、まぁそういう人もいるだろうなぁぐらいに思っている。でまぁ、研究という世界云々というのは、自分が常日頃ボヤいてる、研究コミュニティというのがなくなってきてるんじゃないか、ということで、それが自分の周辺だけとか、自分がダメとかいうことだけではなさそうで、構造的に研究コミュニティというのが成り立たないようになってきてるんじゃないか、というふうに思えるということでもあるけれど、そうすると、この本の「第三部 新しいコミュニティと大学の再利用」はやはり面白かった。