通勤電車で読む『煩悩の文法』。

タイトルがぴんとこなくて、「煩悩」といってもいやらしい想念がわきでてくるのを抑えられず煩悶するみたいなおはなしはまったく出てこないのでそういうのをご期待の向きはほかの本を読んだほうがいいです。著者の人は、ひつじ書房の会話分析系の本だっけ(『シリーズ文と発話』で串田先生と共編者でしたね、とか)?でもよく見かける言語学の人で、この本はまぁ文法の本で、「煩悩」ということばで呼んでるのは、「知識の文法/体験の文法」という二分法でいえば後者のほうの、体験を語ることばに見られる文法的な現象にまとわりついている、つきつめれば私たちが生きていることとか、面白いreportable話を語りたいという欲?とか、そういうことを指しているようだ。

 庭に木がある。
×庭で木がある。
 
×庭にパーティーがある。
 庭でパーティーがある。

「木」のときは「庭に」のほうが自然、「庭で」だと不自然だが、「パーティー」のときには「庭で」が自然で「庭に」は不自然。
これは、「木」がモノで「パーティー」がデキゴトだから。モノが存在するのは「状態」であるが「デキゴト」ではない。
ここまでいいですね、というところからはなしがはじまって、でも、つぎの会話をまずみてくださいよと:

A:「四色ボールペン、日本にしかないでしょうね」
B:「四色ボールペン、北京にありますよ」

このBの発話、これは自然である。では、次のはどうでしょう:

 四色ボールペン、北京にありますよ。
 四色ボールペン、北京でありましたよ。

このばあい、後者も自然に聞こえるのじゃないかと。この人はたぶん北京に旅行して四色ボールペンを見かけたのであろう。「北京にありますよ」だと、一般的な「知識」として発言しているように聞こえるけれど、「北京でありましたよ」だと、「体験」として発言しているように聞こえる。「体験」を語ることばでは、「知識」を語ることばを説明する文法ではあてはまらない現象が起こるよ - というようなしだいで、著者の人は、「知識の文法/体験の文法」という区別を導入する。体験の文法では、北京にボールペンが存在するという状態はデキゴトとして扱われ、「北京で」が自然になる。とかなんとか。それではもういちど「庭の木」に戻って、これをボールペンの時みたいな体験の語りにできないかと工夫してみる:

 四色ボールペンなら北京でありましたよ。
×木なら庭でありましたよ。

やっぱり自然にならない。これは「体験の文法」に特有の理由で、「体験の文法」は、「面白い」体験にのみ許された文法であると。じゃあ「面白い」って何よ?ということを、例文をあげながら文法的に探っていくという。
でまぁいろいろお話がひろがったり展開したりするところが、言語学のおはなしっぽくておもしろい。たとえば、「体験」ということに関連して、「人称制限」という現象が紹介される。発話の可能性が、話し手・聞き手・登場人物に関して同じようには開かれていないという現象、たとえば:

 皆さんにこんなにしていただいて、私もうれしいです。
×皆さんにこんなにしていただいて、弟もうれしいです。
 皆さんにこんなにしていただいて、弟もうれしがっています。

みたいに、自分のきもちは自然に言えるがそれと同じような言い方では弟のきもちは言えない(二番目は不自然)、言おうとするなら、弟のきもちを報告する言い方ではなく、気持ちの表れを外から観察している言い方になる。これはさしあたり、「人間は他者の心を知りえない」という普遍的な人間的事実にもとづいていると思われるかもしれないが、じつは、ということで、このへんの「人称制限」のぐあいは言語によってちがってくるよ、と。英語だと、

 I am happy.
 He is happy.

これ両方いえちゃうよと。つまり、どんなふうにどのぐらい人称制限があらわれるかは、日本語、英語、それぞれの言語的現象ですよと。ふーん。
そんなこんないいながら、この本というのは、日本語という言語に特徴的な(日本語を母語としない言語学者言語学理論ではあつかわれず、日本語を母語とする言語学者にはあまりに自然でみすごされてしまうような)言語的現象のひとつ - 状態がデキゴトになりうる - を鋭敏に表すような例文、たとえば、デキゴトの存在場所を示す格助詞「で」を持つ文なのにデキゴトでないものが語られているにもかかわらず自然でありうる - 「四色ボールペンなら北京でありましたよ」 - にみられるような現象をてがかりに「体験としての状態」というアイディアを言語研究に取り入れるよ、と。