通勤電車で読む『ライフストーリー論』。途中で出てきた「会話の例」が気になって・・・

ライフストーリー論 (現代社会学ライブラリー7)

ライフストーリー論 (現代社会学ライブラリー7)

コンパクトなテキスト。学生さんがときどき卒論で「ライフストーリーやりたいです」とか言うのです。
ところで、気になったところ:

・・・次のような親子の会話の例ではどうだろうか。適切なコミュニケーションとして成立するように(  )内に言葉を入れるとしたら、あなたなら何を入れるだろうか。
 
 親:この辺りはホームレスが多いのよね。
 子:うん、わかった。(         )
 
 どのような言葉を入れただろうか。・・・

・・・ということで、まぁそう言われたら、読みながら自分でも考えてみたりするわけだけれど・・・

私の授業で聞いたところ、学生の回答はほとんどが同じものであった。「気をつけるよ」「近づかないようにする」である。これは出題者の私が予想したとおりであったが、それでもひそかに別の回答も期待していたのである。100人のうち数人は、「将来は困った人を援助できるような職業に就くよ」とか「福祉の勉強をするよ」といった類の回答をするのではないかと予想していたが、結果は、むなしいものだった。これが私たちの現在の〈常識〉としての語り方なのだろうと納得したものの、いくらか落胆したのである。(p.68)

というんだけれど、さてどうでしょう。

【例文1】
 親:この辺りはホームレスが多いのよね。
 子:うん、わかった。気をつけるよ。

とりあえず自分ならどう言いたいかでなくて、あくまでこの会話例が「適切なコミュニケーション」として成立するように、という観点から(  )内に言葉を入れるなら、まぁ「気をつけるよ」ぐらいになるかなあ、と思うのだけれど、まずそれ以前の問題として、この「会話例」はそもそも不自然で、「うん、わかった」という言い回しはこの会話だとちょっと唐突な気がする。そもそも不自然なので、それを「適切なコミュニケーション」として成立するようにと言われましても、という感じは、そもそも、するんである。
なんだけれど、この著者の人は、「「将来は困った人を援助できるような職業に就くよ」とか「福祉の勉強をするよ」といった類の回答」が(  )内に、同様の適切さを以て代入されうると考えておられるようで、できればそのように代入してほしいと願望しておられるようでもあり、しかし誰もそのように代入しないのは(たぶん「ホームレス」をめぐる、差別的なと言ってもいいような)「私たちの現在の〈常識〉としての語り方」のせいである、と考えておられるようなのだ。でも、それはどうなのかと感じる。

【例文2】
 親:この辺りはホームレスが多いのよね。
 子:うん、わかった。将来は困った人を援助できるような職業に就くよ。

【例文3】
 親:この辺りはホームレスが多いのよね。
 子:うん、わかった。福祉の勉強をするよ。

というのは、会話としてちぐはぐであるような気がする。
ここでの親の発言は「この辺りは〜」となっていて、だとすると、この会話の焦点は「この辺り」がどんな場所であり、それに対してどうするか、ということのように見えるから。つまり、子どもの返答が「この辺り」に関する態度表明であれば、比較的すんなりと成立しているように見えるのだけれど、そうすると、【例文1】はそうなってるように見えるけれど【例文2】【例文3】は、そうなってないように見えるんである(【例文2】【例文3】の子どもの発言は、「この辺り」という部分より「ホームレス」という部分に焦点化しているように見える)。
そのへんの語感をかんがえるために、親の発言をちょっと変えてみる。「ホームレス」じゃなくしてみても同じように感じるなら、自分の感触は「ホームレス」に対する「常識」的語り方に由来するものではなくて、より言語学的な現象ということになるのでは、と思う。

【例文4】
 親:この辺りは景色がきれいなのよね。
 子:うん、わかった。ここで写真を撮ろう。

【例文5】
 親:この辺りは景色がきれいなのよね。
 子:うん、わかった。将来は風景写真を撮るような写真家になるよ。
 
【例文6】
 親:この辺りは景色がきれいなのよね。
 子:うん、わかった。写真の勉強をするよ。

【例文4】は、まぁアリだと思える(やはり若干、「うん、わかった」が唐突に見えるけれど)。でも、【例文5】【例文6】は、やはり唐突だと感じられる。いずれも、子どもの発言の焦点が「この辺り」から離れてしまっているから、のように感じられる。
などと考えつつ、じゃあもういちど例文を「ホームレス」に戻したとして、

【例文7】
 親:この辺りはホームレスが多いのよね。
 子:うん、わかった。ここで炊き出しをしよう。

これなら、(”ホームレスが多い”という事態に対して子どもが「炊き出しをする」ことを思いつくことが、政治的正しさや価値観のうえで、著者の期待に沿うのか背くのかはよくわからないけれど、ともあれ)少なくとも会話の流れの自然さとしては、許容できるように思える。
で、だからなんなのかというと、この本の感想として、なんか「語り」に耳を傾けるという主張のわりには、ときどきちらほらと雑なかんじが見えないか、という。