通勤電車で読む『マンガでやさしくわかる論文・レポートの書き方』。

まぁこのての論文の書き方本は折に触れて読んでるわけだけれど、これについては、いきなり「論文には自分の意見を書く」と書いてるだんかいで乗れないよな、と思いながらまぁ読んでた。いちおうマンガの部分と文章の説明の部分があるわけだけれど、マンガによって理解度がマンガならではのやり方で深まる、みたいなことはなかったかな。主人公の女子大生(たぶん経済学とか経済政策とかそのへんの専門かしら)が、論文の書き方の著書のある教授のゼミに入ったはいいけれど、小学校の頃は作文が得意だったのに教授からレポートを酷評されて、落ち込んでいたら、謎の院生女子に出会って導かれるままに文章作成の訓練の道へ…みたいなおはなし。まぁ、経済政策みたいな専門なので、「論文には自分の意見を書く」と言いやすいのかな、と思わないではないけれど、自分はとにかく「事実と意見は違う、論文には「自分が発見した事実」を書くべし」と授業でやっている手前、「論文には自分の意見を書く」とか不用意に言われるとイラっと来るのだった。まぁ、たとえば接続詞の使い方を説明してるとか、余計なことを書かずに一文を短く、シンプルに書く、みたいなことを言ってるのはわるくないかなあというところもあるけれど、やはり決定的にイラっとするところとか、決定的に非アカデミズム的なハビトゥスのにおいをかぎあててしまう(なんかへんちくりんで内容も粗雑な例文を出して、「ずいぶん非情な内容のように思えますが、これは「戦争論理学」という学問分野で扱われる内容です」とか言うので、なにぃ?戦争論理学なんて学問分野、聞いたことないぞ?と思ってググってみたら、そういうタイトルの三浦俊彦の本がありましたというだけだった、等々)。
だってさぁ、↓この文章を普通に読んで、意味が分かるだろうか?

◆ 論文とレポートの違い
 さて、学校で課される論文とレポートですが、その違いはどこにあるのでしょうか。「レポート」とは、もともと報告の意味です。これは、いろいろと本を読んだりして調査し、その結果を誰かに伝えるというタイプの文書です。これに対して、アメリカの大学ではレポートという名称は使わず、エッセイと言います。さまざまな資料を参照するのは当然ですが、むしろ自分の意見を主張するところに力点が置かれています。
 これは、学問の本質が「独創性」にあるからです。世界中で誰もまだ言っていないことを、自分が最初に述べるということが学問の意義です。その精神を尊重するなら、たとえ学生の書く論文でも、読んだ資料をまとめて終わるだけでは評価されません。学部でも、なるべく自分なりの解釈や考え方を出すことが要求され、大学院なら、実際にその意見が実際に独創的であることが求められます。もちろん、他人の論文を丸写しにしたり、注なしであたかも自分の文章のように書いたりすれば、落第どころか退学させられかねません。
 とはいえ、自分独自の主張を出すにも、何がまだ言われていないかを調べる必要があるので、いろいろ資料にあたらねばならないし、そこに何が書いてあるかもまとめなければなりません。とすれば、結局、論文とレポートは(…以下略)

たぶんアメリカの大学ってところで決定的にずっこけてしまうわけだと思うのだが(そしてしかしこの著者のひとの経歴の中でアメリカの大学院にいたという事実はたぶんとても大きいのだと思うのだけれど)、こういう文章を書く人に論文・レポートの書き方を教わっても大丈夫なのだろうかという不安は出てくると思う。