通勤電車で読む『言葉の展望台』。

『話し手の意味の心理性と公共性』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2020/05/15/102513)、『会話を哲学する』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/09/06/172339)の著者の人の本。『群像』の連載ということで、言語哲学エッセイ、というかんじ。で、まぁコミュニケーションが日常的なor社会的な文脈の中でどのようにおこなわれてるか、みたいなおはなし、典型的には暴力とか差別とか、ということになると、まぁそういうのは社会学がよくそういうのをやってるよなあ、と思う。そうすると、社会学ではなくて哲学だと、どう違うのだろう、という関心で読む。もう少し正確に言うと、社会学というのはそもそも哲学やら言語学やら精神分析やらまぁなんでもいいけど他所でつくられた道具立てを勝手に拝借してきてはホイホイ使っちゃうところがあるので、そういう勝手ホイホイ流が含まれた上での社会学と、言語に関する道具立てを作ったもとにあたるかもしれない哲学とでは、言うことがどう違うのだろう、ということ。たしかに違う気もするし、でもどうちがうのかというのもよくわからない。まぁ、ひとは言葉に触れて何か考えるにあたって、いちいち社会学です、とか哲学です、と決めて考え始めるわけでもないので、どっちでもいいし違わなくてもいいような気もする。でも違うんであればその違いをてがかりに哲学とか社会学とかのやりたいことの違いが得心できる気はする。