通勤電車で読む『会話の科学』。内容的に会話分析みたいなはなしなのに会話分析の本じゃないのはなぜなのか。

著者の人は東南アジアでフィールドワークをやって言語・文化・認知・社会生活を研究している、クリ語とかいうのを専門にしている研究者。で、本書はいきなり、言語学は会話を研究してこなかったと言い、だから自分は会話を研究するのだ、というわけである。でまぁ、内容的には会話の話者交代とか修復とかのルール、みたいな会話分析みたいなはなし。で、まぁとうぜんサックスとかシェグロフとか盛大に参照されるのだけれど、いちいち「社会学者のサックスは」「社会学者のシェグロフは」みたいな書き方をするわけである。するとなんだか、著者こそが会話の科学の第一人者で、サックスやシェグロフはたまたま社会学の領域で似たようなことを散発的にやっていた人たち、みたいに見えてこないだろうか。たとえば会話分析の教科書を書くなら、「サックスやシェグロフがはじめた会話分析という領域」について説明します、という書き方になるだろうと思う。で、この本はそういう書き方をしていない。でまぁ確かに、著者の人の関心というか発想というかやりたいことというか、が、会話分析ではないなあという感触もあるのだった。えーとたとえば、いろんな言語圏で発話と発話の間隔、話者交代に要した時間を測定して比べるとか、霊長類の鳴き交わしのパターンと人間の会話のパターンを比べるとか、各言語で修復に用いられる語彙の音声学的な特徴が類似しているとかなんとかそういうかんじ。なんていうか、何が言えるとうれしいのかが会話分析人種とはちがってるんじゃないかというか、たぶん(世間の大方の人たちと同様)この著者の人には、会話分析のやっていることがなんかものたりない、科学未満のものに見えてるんじゃないか(だから自分こそが会話の科学をやっていると自負しているんじゃないか)、というかんじ。まぁそういう自分のみかたじたいが逆に会話分析中心主義ってことなのかもしれないけれど。