『創造性をデザインする 建築空間の社会学』読んだ。建築と空間についての言説の変化をあとづける的な?

牧野先生のここ数年の関心は建築らしいということで、気にしたり読んだりしていたが、それが本になったということで注文していたところ、献本でいただきました。わたくしごときもののところにまで、ありがとうございます。で、注文した分は今日届いたのだけれど、そのまえに通勤電車で読めたと。でまぁしかしこの領域は自分的にも関心があるところで、だから面白く読んだ。本書ではANTから語り起してて、まぁ自分だったらエスノメソドロジーのワークプレイス研究とかアフォーダンスとかからという入り口なのだけれど、建築物とか人工物とかを含む環境とその中での活動というのはお互いに触発しあってるわけで、活動が環境を作るし環境が活動を作るわけである。で、社会というのも単なる理念の現実化したものではなくて、環境が人々を触発してしかじかの活動を産み出し、あるいはしかじかの人間を産み出す、ということもあるわけで、たとえばそこにフーコーの「装置」概念やドゥルーズの「管理社会」概念がからんでくる等々。でまぁ、本書では、学校建築やオフィスや、あるいは都市公共空間といった、広い意味で建築とかデザインの人たちがつくりあげてきたものについて、それぞれ、(ここが牧野先生のやりかたということなのだけれど)文献を収集して、その「言説」の変化をあとづけようとしているみたい。まぁ、エスノメソドロジーだったら(あるいは本書でも、ANTだったらそうするよねというふうに書いてあるんだと思うけれど)、じっさいの活動の現場を観察するのだろうけれど、そうじゃなくて、文献の集積から「言説」をうかびあがらせてなにか言うわけですね。そして、学校建築については、「規律訓練への批判」、というモチーフがずっとあって、それがいまふうのオープンな「ポスト規律訓練」型の空間をみちびいてるよ、ということのよう。このあたり、建築というより自分的にはいじめ問題をメルクマールに考えようと思っていて、そうすると、たとえば学校建築の空間のあちこちにたまり場みたいな空間ができて児童がたまってわちゃわちゃ、という場面を想像すると、いじめでもやりよるんちゃうかという連想がパッと働いてしまい、ポスト規律というよりプレ規律にならへんかという気もするので、そのあたりはじっさいの空間の使われ方を観察したいなあ等々思うところ。また、そのあとの章の、オフィスとかワークプレイスの触発的なデザインの話とか、都市空間をハックする的なはなし(東京ピクニッククラブの名前も…)なんかはけっこうな好物なので、楽しく読んだ。

通勤電車で読んでた『サーフィン・スケートボード・パルクール』。カルチュラルスタディーズ的な。

以前、卒業生女子の近況をきいたとき、「さいきんパルクールをやってていまケガ中である」といったようなことを聞いて、ほう、パルクールなんかやっているのか!かっこいいじゃないか、と思っていた。もともと体操をやってて、授業で子ども教室のボランティアなんかに行くと小学生の前でバク宙やって受けまくってた印象があって、それからたしかストリートダンスのほうに行き、で、卒業後の近況がパルクールなんで、順調にかっこよくなってるのだった。てのもあって、パルクールを含む研究の本だというので買ってて、積読になってたのを読んでみた。パルクールだけじゃなくてサーフィンとかスケボーとかあわせたのを「ライフスタイルスポーツ」と呼んでいて、この本ではタイトル通りにサーフィン、スケートボードパルクールをやってる若者を調査したりしてる。で、期待としては、もうちょっと、どんなことをやってるのかを具体的に描いてるエスノグラフィー、だとうれしかったのだけれど、本書はもうそういうのはわかったテイでということなのか、カルチュラルスタディーズ的な図式で、つまり、政治的な側面というか、人種とかジェンダーとかをめぐる排除とか抵抗とか、なんかそういう着地点でああだこうだ言ってる。

散髪をした。

きのう公開講座があったのでその前に散髪をするかと思いきや、ついついしそびれて、今日になっても夕方までぐずぐずしていたのだけれど、まてよこのところけっこう散髪屋さんに行けるときが限られてるよなあ、行けるときに行くべしかなあと、近所のスーパーに晩の買い物にいく道すがら、ふと思って、散髪屋さんまで足を延ばして、勇を鼓して入った。

通勤電車で読む『自己観察の技法』。エスノメソドロジーを参照しつつエスノメソドロジーではない少しエスノメソドロジー由来の自己観察の技法。

つんどくの中に見つけて、まぁこういうのも買ったんだなと思いつつ電車で読むためにカバンに入れて帰って電車で読みかけたら、謝辞を見て驚いた(というかこの本を買った理由がそのあたりにあったのかとわかった):

謝辞
筆者らは、この場を借りて以下の方々に謝意を表したい。まずUCLAの全教員、とりわけハーヴェイ・サックス、ならびにジョン・ホートン、ワーレン・テン・ホウテンの三名に対してである。わたしたちの著作は多くの人からインスピレーションを受けているが、なかでもハーヴェイ・サックス、アーヴィング・ゴフマン、ハロルド・ガーフィンケル、ジョージ・サーサス、スティーヴ・リスキン、エマニュエル・シェグロフ、ハワード・シュワルツ、マリリン・ガーバー、マーティン・カラシュ、ジョン・ヘリテージらに触発された。愛する家族と友人、そして研究仲間の忍耐強いご支援に感謝したい。

この謝辞を見ると、エスノメソドロジーどまんなかの本が始まると思うのだけれど、本文が始まると意外と全然そんな感じにならない。この本は著者たちの開発したらしい「系統的自己観察」という研究法のテキストのようなのだが、それはつぎのようなものらしい:

研究者はインフォーマントに、普段と変わらぬ行動をとるように指示する。彼らはいつも通りの生活をしながら、研究トピックとされた事象が生じた瞬間を即座に観察しなければならない。インフォーマントは、その事象が現れたら、観察に集中するよう指示される。たとえば、研究トピックが「賞賛を控えること」であるとき、インフォーマントは次のように言われる。
あなたがいつもしているように、ふだんどおりの生活をしてください。自分が相手を褒めることを控えていると気づいたら、それについて観察を始めてください。意識して賞賛を控えたりすることがないよう、行動を変えることなく、ただただ観察してください。
自分が称賛を控えていることに気づいたならば、それを評価することも疑うこともしないでください。
ただ観察すればよいのです。

てなぐあい。
このようなやりかたでデータを得ることの利点はなにか:

社会生活は、それが生じた視点とレベルで記録、分析されなければならない。研究者の意識的ないし無意識的(理論的)仮定は、インフォーマントが自分の行動や経験に与えている意味を見逃したり、無視したり、潤色したりする可能性がある。そのため、系統的自己観察では、データはインフォーマント自身の言葉で記述される。
系統的自己観察データは、観察対象者と観察者とが同一人物であるため、できごとの直接的な報告を産み出す。そのデータに記録されている意味、観点、感情は、研究者が知りたいと思っていることそのものである。・・・

うーん、えーと、そうかー。
本文の中でゴフマンやガーフィンケルやサックスが参照されたりする。えーとー、ひょっとしたらこういう流派もエスノメソドロジーでありうるのかなあと疑いつつ、いやーでもこれはちがうだろうと。
いや、べつにエスノメソドロジーでなくても使える研究法ならば構わないじゃないかと思わなくもないけれど、しかし、みょうに方法論みたいなことを言ってて、みょうな科学主義みたいな感触もあり、じゃあこの方法論でなにかやりたいですかと言われたら、しないなあと、なんかこういまいちだなあという読後感。

通勤電車で読む『一人で思う、二人で語る、みんなで考える』。追手門学院大のアクティブラーニング科目のワークブックを新書にした的な?つかいやすそう。

新書本で、追手門学院大のアクティブラーニング科目のワークブックを新書にした的なものかと思う。岩波ジュニア新書だけど、出てくる仮想例なんかの登場人物が大学生で、まぁようするに大学生向け。「ロジカル・コミュニケーション」略して「ロジコミ・メソッド」という看板をひとつたてて、そこにアクティブラーニング、グループワーク、プレゼン、あと情報整理なんかをまとめて、ワークブックふうに構成してる。あと、簡単な技法集みたいのとか、TIPSとか、考え方の背景みたいなのを説明する章とか、まぁ、新書版でコンパクトで分かりやすい。
著者のところには、追手門学院大学成熟社会研究所(編)と書いてある。
www.otemon.ac.jp
ふむ。全学教養教育でAL系の必修ゼミを担当しているとかの文脈というより、学内のその手の教育研究プロジェクトを支援する、みたいな立ち位置なのかしら。

『サードプレイス』は昭和一桁世代の著者が1989年時点で書いたもの。

1989年というと日本ではバブル経済のころか。昭和から平成に移ったころ。本書の著者は1932年生まれというので昭和一桁世代ということですね。第二次大戦が終わったときに13歳、まぁ戦時下や終戦後にもアメリカのその世代は意外とのんびりしていたのか、あまり戦争の影はないかんじで(終章ぐらいに少し言及される)、まぁ古き良きスモールタウンが原体験、というかんじ。で、ここで出てくる若者世代というのは、だから、たぶん団塊の世代から少し下ぐらいってイメージなのでは。まぁ、1989年なら、日本だと、団塊の世代とかそれより少し下ぐらいの世代が書き手として出てきていた頃だろうし、その世代の人たちが少し後には郊外論とかも論じ始めることになるんじゃないか。そのぐらいのタイミング。ていうと、1989年時点に昭和一桁世代の書いた古き良きコミュニティ論、というのは、まぁとくに今の目で見ると世代的な偏りはやはり感じなくはない。

通勤電車で読む『まとまる!決まる!動き出す!ホワイトボード仕事術』。ホワイトボードを使った会議ファシリテーションのシンプルなテキスト。

仕事術、というか、ホワイトボードを使った会議ファシリテーションのやりかたの教科書で、判型は小さいものの、見開きの右ページがイラストになってる系のわかりやすいテキスト。で、ホワイトボードで会議をやるメリットとか道具とかを一通り説明した後、ホワイトボード会議を回すには3つの役割があるよ、グラフィッカー「書記」とファシリテーター「問いかけ役」とタイムキーパー「ガイド役」だよ、と定式化しておいて、あとは一つの役割に一章ずつかけてノウハウを説明するかんじ。なので、ホワイトボードそのものの話というより、会議の回し方のシンプルな教科書でもある。たとえばうちの学生さんを想定しても、手元に1冊持つ、なんてのにもいいかも。
あと、そうそう、タイムキーパーの役をちゃんと位置付けて1章割いているところは、なんか、わかっていらっしゃる感が。