『大砂塵』みた。なるほど異様だなあ。すばらしい。
『映画に目が眩んで 口語篇』で蓮實重彦と山田宏一が対談していて、この映画についてたくさん喋っている。山田宏一がしきりに気持ち悪がっていて(その同じ点を)蓮實重彦がよかったとやたらうれしそうに語っている。
・ロジカルコミュニケーション
・セルフマネジメント
・ヘルプシーキング
・クリティカルシンキング
・チームビルディング
・プロジェクトマネジメント
・ファシリテーション
・ITスキル/リテラシー
の8つということである。まぁしかしこのへんはテレワークであろうがなかろうがいずれにせよ言われてることで、なので内容的にはいままで言われてるようなことをまんべんなく言ってるというかんじ。そのいみで、さほど目からうろこということでもないといういいかただってできるかもだが、まぁ、コンパクトにまんべんなくまとまってていいね、といういいかただってできるかもなわけである。で、たとえば「AREAの法則(主張→理由→証拠→主張)」などという、聞いたことありそうななさそうなものが紹介されてて、まぁしかし学生さんにパラグラフライティング/リーディングの説明とかトレーニングとかするときに、てきとうに「サンドイッチ構造」などと言っていたので、「AREAってのがあってね」というほうがもっともらしいかもしれない。みたいなようするに便利さはありそうな本。
この著者のものをいくつか読んで、パターンがなんとなく見えてきた。「ラジオ体操」でも「開成高校野球部」でも「トラウマのカウンセリング」でも「ダイエット」でも、とにかくある種のマイナーな領域の人たちを取材して、その「論理」を描き出す。その人たちは何しろ変わったことをやっているわけだから、〈私たちの常識〉からすればおかしな論理であるように思われそうなのだけれど、よくよく取材をしてみれば、彼らの「論理」はそれなりに首尾一貫していて、むしろ〈私たちの常識〉よりも論理的であるような首尾一貫した論理性を有している。そしてその首尾一貫した論理性ゆえに、彼らの「論理」は〈私たちの常識〉が共有している(と信じている)〈現実〉から遊離していくし、そのように〈現実〉から遊離していくゆえの、彼らなりの「論理的な」つじつまあわせが、これまたそれなりに首尾一貫しつつ〈私たちの常識〉から見れば非現実的で滑稽でもある、というぐあい。で、そういう、〈私たちの常識〉からは異質であるような「論理」というのを、〈私たちの常識〉が〈狂気〉と呼ぶのだとしたら、この著者が繰り返し書いているのは、笑えるノンフィクションという形をとった、あれこれの〈狂気〉にかんする人類学的探求のようなものだ、ということもできなくもない。でもって、いうまでもなくそのばあい、この著者の人じしんが、ミイラ取りがミイラであるようなやりかたで、あるいは人類学者が野生の思考の語り手であるようなやり方で、〈狂気〉の語り手であって、だからこの著者のものに登場する変わった人たちはみな同じように見えるし、それはつまり著者その人に似ているんじゃないのということにもなり、エスノグラフィーの登場人物はエスノグラファー本人に似るというわたくしの説がここでもやっぱり確認されることにもなると思うのだけれど、
で、本書はというと、相手が「道徳」ということになる。学校教科としての「道徳」は〈私たちの常識〉からすれば奇妙でマイナーな領域であるとする。そして著者はその「道徳」の論理を描き出す。それが〈私たちの常識〉が共有している(と信じている)〈現実〉から遊離していき、ある種の〈狂気〉として立ち上がる、というふうに進めばいつものとおりなのだけれど、本書では、「道徳」が〈私たちの常識〉とイコールになってしまう。つまり、「みんな」というのが道徳の本体であって、したがって教科としての道徳の内容は、この社会のあちこちになんとなくひろがっている「みんな」に共有されているようにも見えるのだった。それを、サブタイトルのように「いい人じゃなきゃダメ」という言い方をすると、たとえば、世に広がっている「ハラスメント告発」も「いい人じゃなきゃダメ」という道徳の蔓延の事例、ということになる。ハラスメントで告発された人もハラスメントの被害者だ、みたいな言い方が出てくると、これはちょっといかがなものかと感じられるわけで、しょうもない「ポリコレ批判」みたいになる。この世に広がる「道徳」を著者が斬りまくる、みたいになると、なんだか様子がおかしくなるよなあ、と。