処方箋は「脱ゆとり」ではない 中嶋・早大名誉教授

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20050201k0000m040019000c.html

 学力論争、教育論争が活気を帯びている。OECDなどの調査で日本の子供たちの学力が低下しているという結果に、教育界だけでなく、社会全体が騒然とした雰囲気になり、「総合的学習」や「ゆとり教育」が槍玉に挙げられようとしている。だが、PISAの調査が示したものは十分に理解されているのだろうか。今、巻き起こっている議論は、21世紀に相応しい教育観、学力観を展望した上でのものなのか、自分たちが経験した教育のスタイルを守ろうとするものなのか。OECD調査で世界1のトップのフィンランドの教育、またOECD調査に詳しい中嶋博・早稲田大学名誉教授は1月27日に行われたOECD主催の講演会「OECD/PISA、教育大国フィンランドと日本の課題」で「冷静に考えよう」と訴えた、フィンランドと日本の教育について語った。中嶋名誉教授の講演の要旨を報告する。【平野秋一郎】

■教育大国フィンランドと日本の課題

フィンランド科学アカデミー外国会員、中嶋博・早稲田大学名誉教授  

 昨年、経済協力開発機構OECD)の学習到達度調査(PISA)が発表され、新聞各紙は夕刊トップで「日本の学力、世界のトップの座から落ちる」と報じ、「ゆとり教育のつけが回ってきた」と論評した。さらに国際教育到達度評価学会(IEA)の国際数学・理科教育調査で前回より成績が下回ったことが明らかになり、「ゆとり教育」や「総合的な学習」への批判の声が上がった。

 しかし、私はそうした論評、批判に疑問を感じている。果たして日本の学力水準は世界に君臨していたのだろうか。基礎・基本を大切にすることは大事だが、従来の暗記、暗誦の詰め込み学習に戻ることで学力低下の問題は解決されるのか? ましてや時間割りを増やすこと、土曜日の授業を再開することで学力の問題が解決されるとは思えない。文科相は総合的な学習の時間の見直しを発言しておられるが、「ちょっとお待ちいただきたい。冷静に対処していただきたい」と申し上げたい。

フィンランドの教育と日本の教育について語る中嶋名誉教授
 
 結果に一喜一憂することなく、冷静に対処することが必要だ。PISAの目的は「社会経済生活に完全に参画し、将来にわたる学習者になれるような資質が身についているかどうか」を評価するものだ。知識の量を測定するものではない。その観点から、調査結果を冷静に深刻に真剣に受け止めるべきだ。PISAの見事な国際的診断に沿って日本の正しい処方箋がつくられるべきだ。

OECD/PISA−背景と影響

 PISAは長年の試行錯誤の結果、できたもので、なお改善が加えられている。1980年代、韓国や日本の子供たちは数学テストで上位を占めていたが、OECDは「何らかの犠牲の上で高得点を得ているのではないか」「その力は、これからの社会で役立つのだろうか」と疑問を持ち、「むしろ、クロス・カリキュラム・コンピタンス、すなわち問題解決、批判的思考、コミュニケーション能力、忍耐、自信といった教科を横断した能力が大事だ」と考え、その能力を測るための研究を始めた。

 一方、欧州評議会などは94年、「独立的で責任ある個人の形成」「責任ある市民の養成」を教育の最大の目標にするべきだと提言、これに北欧諸国が素早く反応し、学習指導要領の改訂などを行った。94年に国際公教育会議が開かれ、「教育は人権を尊重し、権利の擁護に積極的に取り組み、平和と民主主義の文化の創造へと導く。知識、価値、態度、技能を促進をすべきだ」と宣言した。これをもとにOECDは95年、教育への一般的期待、教育で育てるべき重要な能力は何かを調査した。

 その結果、生き抜くための道具としてのクロス・カリキュラム・コンピタンスの開発が必要とされた。OECD25カ国の代表は基礎的な教育指標の再検討について論議し、教育システムの領域を大幅に拡大すべきことを強く求めた。今まであまりにも教育の認知的な側面に重点が置かれていたのではないか。教育の非認知的な側面の指標の開発が必要ではないか、という問題提起を承認した。これが新しい教育指標へと発展への決定的な要因になった。

 PISAは「若い成人が未来の挑戦に対処すべく十分に準備されているか。彼らは分析し、推論し、自分の考えを意思疎通できるだろうか。生涯を通して学習を継続できる能力を身に付けているだろうか。広く国民、教育システムを利用する人々はこうした質問に対する答えを知っておく必要がある」という考えに基づいて行われている。

フィンランドの教育

 フィンランドは今回調査で「読解力」「科学的リテラシー」でトップ、「数学的リテラシ−」で2位、「問題解決能力」で3位と、総体的でトップだった。フィンランドの文部省は、それは「総合制教育の勝利」であるとし、そこに含まれている要因として「教育の機会平等」「地方での教育の接近性」「性差別の皆無」「教育の無償」「総合的、非選別的基礎教育」「支援的・柔軟な管理−中央の助言と地方の実施」「すべてのレベルにおける課業の相関的協同的方法」「学習への個人的支援と生徒の福祉」「テストもなく序列リストもない」「高度の資質を持ち、自主性を持った教員」「社会・構成主義的学習理論」などを挙げている。

 日本と同じ6・3制だが、中身は違う。フィンランドの教育の特徴は、「グループ学習」「少人数学習」「個別指導」「公民教育」「環境教育」の徹底にある。そして落ちこぼれを防ぐあらゆる手立てが講じられている。

 1991年に北欧閣僚協議会は「学校管理を国から地方に移そう」という勧告を出した。それを受けてフィンランドは93年に教科書検定を全廃し、94年に学習指導要領を改訂したが、それによって教科書は従来の10分の1の厚さになった。学習指導要領はほとんど枠組みだけで、後は現場の教員に任せた。それによって、各学校は特色を出せるようになり、さらに底上げ、底辺の充実を図った。それが今回の結果に反映している。

 1995年の全国学力テストで第8学年の読解力が劣っていた。そこで、新聞雑誌協会、教員組合、図書館協会が一体になって読書力の向上に努めた。2001から2004年の最優先プロジェクト「読書フィンランド」として、学校図書館の充実、自治体と図書館の連携強化、作家を学校に招くなどの取り組みをした。注目すべきことは、このために授業時間を増やしていないということだ。中学の授業時間はOECD調査で、世界最少だ。

 フィンランドの学校はとにかく楽しい。子供は学校に行くのが楽しいから、絶対に休まない。そして質の高い教員がいて、教科書を楽しく教える。授業は日常生活から出発し、公民教育がきちんと教えられる。しかもそれは、道徳教育ではなく、人間として人間らしい教育をしていく。

 昨年、新しい学習指導要領が告示された。「数学と国語は1〜2時間増やす」「小中一貫」が盛り込まれた。それ以上に注目すべきことは、21世紀を切り開くため、「総合性の徹底を図る」こととし、すべての教科を横断し、すべての学校の全課業を支配する原理として、総合的な学習の時間を促進させようという新しい狙いを掲げている。我が国と全く逆だ。

 実験学校の報告では、金曜日は一切、時間割りがない。そして週26時間のうち11時間が総合的な学習に当てられている。そのテーマは「個人的な成長」「文化的同一性と国際化」「コミュニケーションとメディア技術」「参加型市民性と起業家精神」「環境への配慮・福祉と持続的未来(平和)」「安全と交通」「人間とテクノロジ−」の7つの大変、大きなテーマを全部やれという、驚くべきものだ。これらを21世紀を切り開くテーマとして取り上げている。

▽教員養成改革

 フィンランドでは昔から「教員は模範的市民であり、祖国文化の担い手、国際文化の理解とその寄与者として、それらを次の世代によく伝えうる教育技術に長け、児童を心の底から愛する人格高潔な人でなければならない」と言われている。子供たちの将来なりたい職業は男女ともに教員だ。

 1971年の教員養成の改革で、すべての教員は教育学部で養成することが決まり、「すべて教育学部で最低4年の教育を行う。幼稚園と低学年の教員はさらに長い教育が望ましい」「志望する学科、専攻は違っても同じ講義を教育学部で受ける」「途中で不適格とされた者は他学部への移行を可能にする」「高学年以上の教員は他学部の講義を受け、教科の専門家、教育の専門家となる」ことが法律で決められた。79年には教員養成カリキュラムが大改革され、初等教育の教員の学級担任の場合、160週以上の履修が必要になった。1年40週で4年だが、普通5〜6年かかる。それは半年、実習を行わなければならないこと、語学の単位を取るにはその言葉の国に1学期行かなくてはならないことなどがあり、4年では卒業できない。160週を履修すると修士号を取れる。全教員が修士号を持っている。

 フィンランドでは、「子供中心」「社会共同」「1人で学習することで人間の発達はありえない」「個人の成長は社会の成長」と考え、詰め込み、訓練主義に全く反する学習理論に基づいて教育を行っている。

◇日本の教育−課題と処方箋−

 PISAの調査は国際的な科学的な学習診断だ。この国際勧告を受け入れ、この名医による国際的診断を受けて、どんな処方箋をつくるかが、我が国に求められている。その処方箋は決して脱「ゆとり」ではない。「生きる力」「学ぶ力」の育成を目指したものであるべきだ。21世紀に必要とされる基礎・基本をゆとりの中でしっかりと押えていく必要がある。

 国語力のアップが一番大事だ。読書の勧めは緊急の課題で、それは国語力のアップで、それには学校と家庭の協力なくしてはできない。特に学力の低位層の子供たちへのケア、底上げが必要だ。もちろん数学、理科の学力アップも求められる。そして落ちこぼれをなくす方策を親がサポートすることが必要だ。サポートはOECDでは常識になっていて、親はパートナーとしてサポートしている。すなわち「助け合いの学習」が行われている。福祉国家フィンランドの教育は助け合い、落ちこぼれのない学校を実現している。フィンランドはPISAの前回調査でトップになりながら、なお、読むことを優先させてきたことを忘れてはならない。優れた教員養成にかける熱い思いと科学的措置、総合学習を強化して「生きる力」の育成を図るというフィンランドの教育は、我が国と全く逆である。

 どんな家庭でも、豊かでない勤労者の家庭でも数百冊の図書を持っている。ムーミントーベ・ヤンソンアンデルセンのものなど基礎的な本は全部ある。学校ではさらに、家庭にないものをそろえて、合科的な授業の時間に読ませている。それらの本をどんな家庭でもそろえられえる「助け合い」の福祉社会、国民にすべてが保障されている社会が実現している。

 フィンランド社会保障省の1979年の文書には「教育こそが国家の貴重な資産と見なして大事にしてきたことが、今日の福祉国家を実現した」と言っている。OECDの2004年の統計では、教育費のGDP比がフィンランドは5.5%だった。デンマークは6.45%、スウェーデンは6.29%で、日本はOECD加盟国最低の3.5%だ。フィンランドはほとんどが公教育だが、教育は無償が原則だ。そういうことを考えていかないと、日本は沈没しかねない。

毎日新聞 2005年1月31日 17時59分