東大入学式:「常識を疑う確かな力を」小宮山学長

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/edu/news/20070412k0000e040046000c.html

東京大学の入学式が12日、東京都千代田区日本武道館で行われた。小宮山宏学長は式辞で「常識を疑う確かな力を養ってほしい。いかなる分野に進もうと、それが皆さんを最先端に推し進める力を持つ。30、40歳になった時に自信を持って活躍するために、今何が必要かを考え、学生時代に身に付けてほしい」などとあいさつした。
 今年度の入学者は前年度より11人少ない3150人(男2565人、女585人)。
毎日新聞 2007年4月12日 11時37分 (最終更新時間 4月12日 11時45分)

べつにどってことない記事なのだけれど。ふと思ったのでということで。
「常識を疑う」というけれど、社会の中で一般的に通用する「常識」というものが機能しなくなっているのだから、「常識を疑う」ことだって機能しなくなっているでしょう、ということ。
ひとつの「常識」が社会全体を覆っている、という状態であれば、それを「疑う」ことは大切だし、それには「確かな力」が必要だろう、と思う。
でも、もともと複数のものの見方があるばあいには、「常識を疑う」という体裁のもとに、自分と相容れないものの見方を攻撃する、ということがおこる。
「オレは真実を知る少数派だ」みたいなヒロイックな気分で、そのじつきわめて安易で独善的な自分の見方に固執する、みたいな。自分と異なるものの見方に「愚昧な世間の常識」というようなレッテルを貼って、叩く、みたいな。たとえばいわゆる「「フェミニズム」叩き」なんてそうですね。

ところで、いわゆる「社会学は「常識」を疑う」みたいな言い方の、耐用年数がそろそろ切れてきていると思う。
社会学はほんとうはもっと違うことをやるのだけれど、まぁ初学者にわかりやすいように「社会学は「常識」を疑う」みたいな方便を言ったりするのだけれど、
こまったことに、社会学をやっていると自称している人の中でも、ほんとうに「社会学は「常識」を疑う」ものだと自分で思い込んでしまうひとがでてきたりして、ところが上にのべたごとき理由でもって、社会学の物言いが、質の悪い通俗的自己愛的言説に吸収されてしまっているように思われる。