ダメ情報の見分けかた メディアと幸福につきあうために (生活人新書)
- 作者: 荻上チキ,飯田泰之,鈴木謙介
- 出版社/メーカー: NHK出版
- 発売日: 2010/12/08
- メディア: 新書
- 購入: 7人 クリック: 265回
- この商品を含むブログ (32件) を見る
↓
ちょっと補足。
いまおこってる原発だとかのはなしのキモは、専門家もふくめ誰も正解をわかってへんしわかるわけないというところにあるはず。それは、やっぱりそりゃわからんよ。初めて起こって現在進行中の事柄で、しかも原発の中を観察することじたいが制限されて(いまはどうかしらんが当初は)観測機器だかセンサーだかもどれが機能してどれが壊れてるのかもあやふやだったりしてたわけで、そりゃ誰にもわからんだろう。
それは、政府が無能だとか電力会社がこの期に及んで私利私欲に走ってるとか保身に汲々としてるとか、学者が御用学者だとか金貰ってるとかマスコミが不勉強だとか、視聴者のわたくしたちに不安耐性がなさすぎるとか客観的リスク評価ができなすぎるとか、差別偏見の心があるとか日本文化が遅れているとか、科学教育ができてないとか、まぁなんでもええですがそういうことも、まぁあるんだろうけれど、そういうダメ要素を見分けるとか見分けないとか以前の問題として、いまおこってることは、たしかに重大ではあるけど、でもじたばたしたってある程度以上のことは誰にもわからんことなんである。
そうすると、たぶんおはなしはすっきりしてきて、たとえば仮に「ここに住んでたら放射能が降って来るので疎開する!」という行動の選択肢があるとすれば、はじめて、ゴーかストップか、その選択の判断に必要な情報をそのかぎりで収集して、あとは自己責任で決断、ということになる、みたいなことじゃないか。そういう具体的な判断の選択肢がないところで一般論的に情報を見分けることには、あんまし意味なかろうと思う、あるいは、別の言い方をすれば、情報を見分けるんなら、なんのために見分けるのか、そういう具体的な選択肢をあきらかにすることがさいしょではないか、そんでもって冷静になって考えればわたくしたちは、よくもわるくも、そんなに選択肢を与えられてるわけではなくて、不安に思いつつ疎開できるわけでもないし、けっきょく言われるままに計画停電などに従いつつ、テレビを見てるしかないということになる(あるいは、たとえば反原発デモ?でも起こして状況&自分に与えられている選択しそのものを変えようというのであれば、効力のありなしはともあれ、それはそれではなしはわからんではないけど)。じぶんに与えられてる選択肢がテレビを見続けるか消すか、という二者択一に限定されるとすれば、じぶん的には、テレビを消そう、となる。たぶん、じぶんがテレビで寝ずの番をやって監視の目を光らせようが、よくもわるくもなんにもならん。そしたら寝てた方がいい。という、決断。
この本、たしかにメディアリテラシーをつけるべきとストレートに書いてあるわけでもなくて、「メディアリテラシー」ということそのものを疑いつつ、みたいなスタンスだったと思う。でもそのへんについては、まぁ上↑でぐだぐだ書いてたようなことを考えてたので、べつに「あたりまえだなあ」と思ってた。んで、でも、「メディアリテラシー」を疑いつつダメ情報を上手に見分けよう、みたいなオチは、なんだか学生のレポートのオチみたいで、「極端はよくないからいいぐあいにいくのがいい」というのは、けっきょく何も言ってることにならない。この本の中でも、そういう空疎な物言いはダメ情報だ、と言ってるけれど、それは、「メディアリテラシーを疑いつつダメ情報を適切に見分けよう」というこの本じたいにあてはまるんやないか。
と思いましたということ。