通勤電車で読む『ジェネレーター』。ファシリテーターはもう古い?

先日、職場で同僚の先生と喋っていたら、ファシリテーターとかコーディネーターとかそういう話題の中で、「ジェネレーター」という語が出てきた。知らなかったので、すいませんといってどういうものか聞いて、なるほどねと思い、あとで検索をしたらこんな感じだった。
note.com
「「ジェネレーター」(generator)というのは、いまから10年くらい前に、僕(井庭崇)と市川力さんとでつくった新しい概念だ…」
ほうほう、というわけで、本を発注してから、とりあえず同じ著者の以前研究室に買ってあった本を読んでみたり(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2022/06/14/192456)してたら本が届いて、通勤電車で読んだ。
で、ファシリテーターではないのだということのようで、最初の章の最初の小見出しが「ジェネレーターは内側に入って、ともに活動する」とあり、ファシリテーターは「はい、みなさんやってみましょう」と促すが自分は活動に参加しない、ジェネレーターは一緒に参加して盛り上がりを作る人だ、ということのようだ。同僚の先生が言うてはったのもそのへんのことで、ひとまずは納得する(でもまぁちょっとファシリテーターを悪く戯画化しすぎてるとは思う。「はいみなさんやってみましょう」だけ言ってあとはほっておくようなファシリテーターがもしいたらそれはたんにダメなファシリテーターってだけのことだろう)。
それでしかし、読みながらなんとなく考えているうちに、ジェネレーターというのは、ファシリテーターが場のなかでメンバーをそのような状態にもっていきたいところのものであるじゃないか、という気がしてくる。ファシリテーションがうまくいくとき、場の中で参加者の活動が促進されて、お互いに触発しあいながらそこに新しいものが生まれてくる、というのであれば、そのとき参加者たちはジェネレーターになっているよといえるだろう。ファシリテーターは場を作るし、場のなかで起こることをうまく拾っていって場の参加者たちをジェネレーターに変えていく ー メンバーが相互触発しやすいような場を作ることで場のみんながジェネレーターになっていく ー みたいな。この本の中で、「教育場面におけるファシリテーターのマインドとジェネレーターのマインドの使い分け」という節があったり(p174)するように、この本でいうジェネレーターにもファシリテーター的な側面が含まれているだろうし、また、「プロジェクトの場にジェネレーターは何人いてもかまわない」(p184)わけで、「ファーストジェネレーターが現れることによって、参加者もジェネレートされ、…だんだんみんながジェネレーター的なふるまいをしてゆくようになる」わけなので、いきつくところは理屈の上ではファシリテーターでもジェネレーターでもさほどちがわんような気がするなあという気になってきた。
しかしまぁ、実際に具体的な場面で、ファシリテーターの立ち位置じゃなくて活動の中で周りを活性化させるジェネレーター的な人、というのはげんにいるわけなので、具体にそくしていえばジェネレーターとファシリテーターの違い、というイメージはよくわかる。
えーとたとえば、新庄が大リーグから日ハムに帰ってきて日本シリーズでホームスチールを決めてお祭りみたいなムードになってパリーグが勝利してお立ち台で「パリーグ最高!」と言ったみたいな記憶がある、あのとき新庄はチーム全体を躍動させるジェネレーター的だったなあと思うし、その新庄がビッグボスとして日ハムの監督になって、最下位ながら面白いチームをつくりつつあるんではないか的なはなしは、ファシリテーターだなあと思うわけである。

しかし、また考えてるのだが、「ファシリテーター」についてのおはなしは、どんな場にするか、そのためにはどんな技術が有効か、みたいな話になりやすい。技法論になじみやすいというか。で、「ジェネレーター」についてのおはなしは、自分がなっちゃうというはなしなので、技法論になじみにくい気はするな…。