通勤電車で読む『〈ヤンチャな子ら〉のエスノグラフィー 』。写真はイメージです。

教育社会学の若い方の本。さしあたり表紙の写真に目が行くがこれはなんか写真家の人の作品らしい。それで、中を読むと、この本の中に登場する「ヤンチャな子ら」のイメージがこんどはイラスト(さいしょは顔だけ、つぎは「ヤンチャ/インキャラ」の対比図として、両方ともインフォーマントであるヤンチャな子のひとりが描いたもの?)で描かれているけれど、なんか表紙のヤンキー男子の印象と気合の入り方がちょっと違うように見えなくもない(イラストに描かれた数人の中にひとりそれっぽいやつがおるようにも見えるけど)。それで思い出したのが、何年か前にベストセラーになった『ビリギャル』という本で、あの本を読んだ人の多くが表紙写真の女子が著者と別人のモデルだったということに「え、そうなんだ?」という反応をしていたこと(あと、「学年ビリ」とか言っていた著者のプロフィールが意外に文化資本高そうなのではというのもあった気がするけど)で、表紙に写真を出すというのはたぶんなにげに微妙な問題を含むことになるはずなんじゃないかなあと思った。とくに本書で言えば、「ヤンチャな子」とは誰か?という問いを立てたり、彼らをひとくくりにできるのか?(もちろん言うまでもなく、対象を勝手にひとくくりになんてできませんよということになるわけだけれど)という分析をしたりしているのだから、その文脈でいえば、表紙に気合の入ったヤンキー君の写真を一発バチーンと持ってきて読者に強く印象付けましょう!となったときに、感覚的に「それはやめてください、本書の分析や主張に反する恐れがあります」となるところじゃないのかなあ、と思うわけである。
あとまぁ、「亀裂」という言葉がつかわれているところは「人それぞれ」でいいんじゃないかなあ、等々。