通勤電車で読む『考えるとはどういうことか』。著者のひと流の「哲学対話」のやりかたの新書本。エンカウンターグループみたい。

通勤電車で読みかけてのこりを下宿で読んだ。タイトルは「考えるとはどういうことか」となってるけど、この本は思考ということの本質を明らかにするものではない。サブタイトルに哲学入門、とあるけど哲学の入門書という感じでもない。著者のひとは「哲学対話」というのをやっているひとで、その考え方とかやりかたとかが書いてある。世の中に哲学カフェというのがあるけれど、まぁそれ的だなあと思いつつ(また、ちょっと検索したら、著者のひとはじっさいに哲学カフェという看板でもやったりしてるようだし、この本が哲学カフェの入門書としてつかわれてもいるみたい)、読んでみた自分的な印象からすると、「エンカウンターグループ」みたいなかんじ。つまり、いわゆるふつうのいみでの「哲学み」が希薄にみえるし、それでかまわないのだといっている。この本に書いてる段取りとルールでやれば、それは哲学対話であると。たとえば会社の職場内で上司部下みんなで定期的に哲学対話をやっている、あるときは「すきなご飯のお供は何か?」ということを対話して大変盛り上がった、いわゆる深まりはないけれどそれはそれでよくて、みんな毎回楽しみにしている、みたいな。それでも「問いかけ」があり「語り」が「受け取られる」「場」がなりたっていればそこに「考えること」がなりたつ、それが哲学だよ、という。わたしたちは「考えないこと」ばかりを教育訓練されてるよ、だから「考えること」をできるようになることで、「自由」を得るのだよ、それはまったく感覚的に実感できるはっきりした身体的な経験なのだ、というかんじ。まぁおっしゃることわからんではない。まぁ自分の中ではそういうのは「エンカウンターグループ」という箱に入ってたし、「哲学」というのは別の箱なんじゃないかと自分の中では整理されてるんだけれど、まぁそれはそれ。
ちなみに検索してたら似たような感想を言っている人がいた。
梶谷真司『考えるとはどういうことか』の違和感~「哲学対話」と「対話」は同じものか?│アテナイの午睡
まぁたぶんこの本を読んだ人はこう思うだろうけれど、まぁそれはそれということなんだろう。
学生さんに勧める新書本としてはわるくないっちゃわるくない。「哲学」枠の二番手、というかんじか。つまり、「哲学」枠の一番手には、たとえば、以前しばらく勧めてて好評だった野矢茂樹『哲学の謎』あたりを置きに行って、二番手に変化球で本書、みたいな。そんなイメージ。