通勤電車で読む『〈単なる生〉の哲学』。

ひょんなことからこのところずっと動機づけ面接の本を読んでいて、ようやく手元のものがおわったのだが、研究室の本棚をぼんやりと見ていたらひさびさにこの本が見つかって(なんか先日、授業の関係か学生さんの質問に変な感じで答えたいかなにかで探していたが見当たらなかったのだが)、ちょっと読みなおしてみようかしらとかばんに放り込んで、電車で半分、うちで半分というかんじで、なんとなく読み終わった。昔に読んだときよりはたぶん少しはわかっただろう(なんか前に買ったという形跡だけある https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20050225/p1 )。帯に「タダ生キテイルのはだめなのか?」という惹句が書いてある。そしてしかしこの本は、アガンベンとかフーコーとか、ニーチェとかスピノザとか、アルトーとかバタイユとか、なんかいろいろ参照しながら進んでいる。けっきょくのところただ生きているのはだめなのかいいのかよくわからないっていうかそもそもただ生きている生とそれ以上の生とを区分するというのが政治の結果であってみたいなはなしになるとおはなしはもとにもどってるような気もしなくもない。

「単なる生」「タダ生キル」の内容。「タダ生キテイルのはだめなのか?」というとき、イメージされるのは、なにも立派なことをせずにぼんやりと、あるいはのんびりと、お茶を飲みながら生きている、ぐらいのイメージかと思う。しかし、たとえばアガンベン、などというはなしがでてくると、絶滅収容所でただ生きている、むき出しの生、みたいなイメージ。また、アルトーとかバタイユなどというと、ふつうの生活を食い破るような激越な「生」みたいな。それらを縫い合わせるようにして議論が進んでいくわけで、まぁだから、のんびりとお茶を飲みながら生きよう、の本ではまったくない。まぁそりゃそうですな。