通勤電車でぱらぱら見ていた『臨床心理学 増刊第12号 治療は文化である』。東畑論文の「ユンギアン化したロジェリアン」批判を覗いてみたのだが…。

少し前に読んだ『現代思想』の特集(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2021/05/17/162611)の巻頭対談で言及されてて、関心を持って通勤電車でぱらぱら。それが東畑開人「平成のありふれた心理療法 - 社会論的転回序説」というやつで、東畑氏じしんが出身である京大教育学部河合隼雄系の心理臨床を「平成のありふれた心理療法=ユンギアン化したロジェリアン」として批判的に再検討するよ、ということかと思うのだけれど、読んでみるとなんかぴんとこなかった。
戦後の日本のカウンセリングは、さいしょにロジャース派が、「戦後の民主化を目指したGHQの影響を強く受け」て定着する。でそれは、受容とか共感とか自己一致とかの態度が強調されるいっぽう、クライアントの心理に対する「見立て・アセスメント」が欠けていた、ようするに「「関係すること」が追求され、「心理学すること」が欠如」したものだったと。で、そこに、河合隼雄が、ユング心理学を持ち込んで、「心理学すること」を加えたよ、これが平成日本の標準的な「ユンギアン化したロジェリアン」だよ、と。ところが、河合隼雄も、本場欧米のユング心理学に比べると「心理学すること」を徹底しなかったし、むしろ、みょうに日本化した「箱庭療法」に代表されるように、言葉による解釈によらない心理療法こそが、西洋が知らなかった日本文化に即した心理療法である、ということになったよ、と。まぁそのぐらいの見立ては、そうかなと思わなくはないし、まぁそのぐらいまではほぼ常識の範囲内だろう。
で、そこで、東畑氏は「サイコロジカルトーク」という概念を出してくる。つまり、治療場面でカウンセラーとクライアントがクライアントの心の事象について話し合うこと、これによって、カウンセラーの中の心理学的理解が「検証」され、それによって心理学化が最終的に完遂するのだ、という次第。「平成のありふれた心理療法=ユンギアン化したロジェリアン」の作法にはこの「サイコロジカルトーク」が欠けている。西欧的な心理療法の考え方から言えばおどろくべき、「解釈抜きの心理療法」で、それでも治療的な進展が起きているわけで、それは種を明かせば、治療者とクライアントの転移的なタテの関係、「先生転移」をもとにしてると。このタテの「We-ness」の転移的関係の中で、治療者が言語的コミュニケーションを最小にしながら「sense感じる、気をつかう、気持ちを汲み取る」ことに専念する独特の作法が受け継がれてきたんだよ、という見立てである。まぁこれもふつうにそうかなというぐらいのかんじ。
で、2000年以降ぐらいに、たとえば認知行動療法が広まったり、あるいは力動心理療法の内部からも、治療者とクライアントが言語的共同作業として「サイコロジカルトーク」を行う風潮が出てきたよと。で、「ユンギアン化したロジェリアン」的な心理療法の業界がふわっと共有していた共通基盤が失われたよと。で、多様な学派がそれぞれ閉じた小宇宙として並列する多元性の時代がいまだよと。
で、そりゃそんなもんかなあと思いつつ、なんかうまくわかんなかったのは、

サイコロジカルトークは技能であるから、本や教科書だけでは学べず、理論と実践をつなぐ訓練を必要とする。すると、その小宇宙のなかで厳しい訓練がなされ、認定資格が発行される。そのようにして、日本の臨床心理学は多様な学派が並列する多元性の時代を迎えることになったのである。

のところ。ふつうに考えると、「平成のありふれた心理療法」の時代こそ、「作法」を身につけないといけないので閉じた小宇宙のなかで訓練するしかなかったのです、ところがサイコロジカルトークとして言語化される風潮とともに、心理療法の技術も言語化されて本や教科書でどこでも学べるようになったのです、という筋書きかと思ったら、そうでもないらしいのである。どうやらひとつには、「平成のありふれた心理療法」の時代には河合隼雄に代表されるような一般向けの著書がベストセラーになっていた、みたいなことが念頭にあるみたい。土居健郎でも北山修でもいいけれどそういう人たちの本(多くはまた、心理学や心理療法だけでなく日本人の「こころ」の解説、「日本文化論」のかたちをとってた)は広く読まれてた。で、これが心理治療の場の共通基盤になったり転移の足掛かりになったりしたってことをいいたいのかもしれない。でも、べつに平成のカウンセラーの人たちだってしっかり厳しい訓練を経て専門家になってきたはずなんであって、べつに河合隼雄『こころの天気図』を読んで感動してたらカウンセラーになれましたというわけではないでしょう。それが非言語的な「作法」にもとづくならよけいに、秘教的な厳しい訓練が必要という筋書きのほうがしっくりくる。逆に、それが言語化されて「サイコロジカルトーク」が一般化したというのなら、素人であるクライアントさんとのあいだでさえ「共有」できる心理学的知見であれば、それを専門的に身につけたいという人が本や教科書で(全部とは言えないが)以前よりずっと言語的に学びやすくなりました、という筋書きのほうがしっくりくるでしょうと思う。認知行動療法のテキストやツールなんてとても分かりやすいわけだし、公認心理士のテキストの心理療法そのもののパートなど大概だったと思う。
で、それはともかく、ひとつにはそれは日本社会の変化が背景にあるよ、戦後、伝統社会がまだまだ残ってたときにはロジェリアン的な「気」の心理療法はマッチしてたし、それがどんどん日本が豊かになってくると、「物質的にはゆたかになったが心はどうだろう?」とかなんとか定番なことを言って自己を理解したいとか自分探ししたいみたいな欲が一般化して河合隼雄の本が売れたりしたよ、でもバブル崩壊でまた日本が貧しくなって、自己の内面を深々と掘り下げたいと思うような人は減ってきて、誰もがブラックな世の中で削られて職場や家族の中で目の前の人間関係のリスクに不安を抱えながら生きてるようなしまつ、そんななかで現代の心理療法は新しい局面を迎えてるねえと。まぁそりゃそうだろうねというかんじ。どっちかというと、さっきのサイコロジカルトークうんぬんより、こっちの「日本が貧乏になった」だけでおはなしが終わってしまいそうな気もしなくもない。
で、けっきょく、この東畑論文のオチは、じゃあこれからは「平成のありふれた心理療法」は滅びるのか、滅びるべきであるのか、というとそうは書いてなくて、ようするに、心理療法も多元的にいろいろあるし、クライアントも多種多様なんだから、マッチングがだいじだよ、住みわけだね、みたいなおはなし。はい、それはそうですね。

東畑氏は、『居るのはつらいよ』の人で、何かいま勢いのある心理療法家の書き手なのである。2年ぐらいまえに、まとめて読んだ。
『居るのはつらいよ』読んだ。はずれなしでおなじみ「シリーズ ケアをひらく」の一冊。 - クリッピングとメモ
『野の医者は笑う』読んだ。『居るのはつらいよ』の著者・臨床心理士による沖縄スピリチュアルヒーラーの医療人類学というか。 - クリッピングとメモ
『日本のありふれた心理療法』読んだ。これはいい本。『居るのはつらいよ』の人のちゃんとした論文集。 - クリッピングとメモ
ミニ帰省で読んだ『美と深層心理学』『リモートチームでうまくいく』。 - クリッピングとメモ
通勤電車で『現代思想 特集 精神医療の最前線』ぱら見。 - クリッピングとメモ

自分は門外漢であって素人的な理解だという前提で、でもまぁ授業でフロイトは~とかやっていることもあり、いちおう自分の理解の範囲でのメモとして。ここで「サイコロジカルトーク」と呼ばれているのが、分析の結果についてクライアントと言語的にコミュニケートして共有すること、だとすれば、これなかなか一筋縄ではいかんだろうなと。
分析の結果なり解釈なりというのは、クライアントの「無意識」にかかわることだろうし、「無意識」というのは古典的には定義上、抑圧されたものであるからには、クライアントがすんなり認めるということがあるのかっていうはなしがまずある。あなたにはこれこれの欲望がありますね、はいそうですよ、ということになったら、「分析」をつうじて「無意識の欲望」を明らかにしたことにはならないかんじがある。なので少なくとも、あなたにはこれこれの欲望がありますね、えっそうなんですか、気が付きませんでした、なるほどわかりました、ぐらいのワンクッションがあるはずだ、これは定義の問題である。そしてしかし、これもおなじことで、「なるほどわかりました」と言うことが可能になったときに、当該の無意識の欲望のある部分はあらためて抑圧されたのであろう、そして無害化されて抑圧を回避することが可能になった部分だけがクライアントに「わかる」形で受け入れられたのだ、となるはずだ、これも定義の問題である。だとすれば、「サイコロジカルトーク」は定義上いつでも無意識を取り逃がすよ、ということになる。フロイトが、無意識の解明による「カタルシス」療法にとどまらなかったのも、そういうことだろう。
なので、「平成のありふれた心理療法」でなくても、そもそもいちばんさいしょのフロイトのときからずっと、「サイコロジカルトーク」は定義上、限界があるものだったはずなわけで、その限界をふまえて、フロイトの治療論は「転移」の操作に力点を移すことになったはずなわけで、基本的には、「平成のありふれた心理療法」がそうである以前に、そもそもフロイトのときから、治療者とクライアントの転移的なタテの関係によって治療が進行するという構図だっただろうし、フロイトでいうと「先生」というより「父」ということになって、あるいはユダヤ的な「一神教の神」みたいな形象も重なって、タテの関係ということで言えば「平成のありふれた心理療法」よりもよほど厳格なタテの関係ではあろう。「平成のありふれた心理療法」では、「父(神)ー子」の厳しいタテ関係よりはずいぶんゆるやかな「先生ークライアント」の「先生転移」になりましたね、ということはいえるだろうが、それなら「平成のありふれた心理療法」のタテ関係を批判するのは方向がへんで、「平成のありふれた心理療法」のほうが本場オリジナルの分析よりはずいぶん対等に近づいてるともいえなくもない。で、また、それが「サイコロジカルトーク」の有無によるものかどうかというのもびみょうっちゃびみょうで、たしかにたぶん本場の精神分析なら転移を操作するにしても「解釈」をどんどん言語的に患者(あるいはクライアント)にぶつけるのかもしれないけれど、それはべつにクライアントと言語的にコミュニケートして共有できるとかしようとか民主主義的なことを思ってやってるわけではないんじゃないかと思う。たぶん、転移を分析して解釈をクライアントに言語的に伝えたら、クライアントがそれを受け入れるか抵抗するかにかかわらず、状況を強く動かす指し手になるだろうし、その状況を動かすイニシアチブを治療者のほうが先導することにもなるだろうし、そのことが「タテの関係」をより強化することにもなるかもしれないかなあと思う。そのへんで、「平成のありふれた心理療法」はよりマイルドに、治療者は解釈を言語的にクライアントにぶつけることをせずに、おなかの中で「見立て」を検討しながら、なんとなくぼんやりと転移的な関係をキープしながらじわじわと操作する、というかんじなんじゃないかと、まぁこちとら素人だけれど、理解している。それは、基本的には、いわゆる古典的な「転移」の操作というのから、さほど離れていないだろうと思う。むしろ、「サイコロジカルトーク」に「クライアントとの共有」を期待するほうがズレてるだろう。
で、おはなしがもとにもどって、じゃあなんで「サイコロジカルトーク」を用いる心理療法が今になって流行ってるかというと、それは東畑氏の見立て通り、日本が貧乏になったせいということもできるし、まぁ日本だけじゃなくてもメンタル市場が薄く広く広がったことで、無意識(抑圧された)とかにかかわらない浅いメンタル不具合を心理療法が相手にするようになったから、ということもあるだろうし、まぁ、ドゥルーズいうところの管理社会化が進んでいることで個人の人格構造の中で「抑圧」の働きの役割が軽くなってきてるんじゃないか、というぐらいのことをいってもいいんじゃないかと思う。心理療法家のところにやってくるクライアントが生み出される背景が変化したのだから、それを心理療法側の変化(「平成のありふれた心理療法」からポスト「平成のありふれた心理療法」へ)のように記述してもあんましいみないなあというか。
あるいは、「職場がブラックで会社に行くのがつらいんです」「あなたはウツ状態になってるので少し考え方を緩くして逃げ場を作れるようになるといいですね、少しずつ練習しましょう」「了解です」ぐらいのことを「サイコロジカルトーク」と呼ぶ必要がはたしてあるのかってのもあるね。「あなたの夢に出てきた子犬はあなたが産んでいたかもしれない子どもの象徴で…それを介してあなたはあなたの母親と同一化したいという欲望が…」とかなんとかようわからん解釈をクライアントと語り合うみたいなことと、「部屋の外への恐怖は誤った観念なので、少しずつ部屋から出る練習をしましょうか」「わかりました」みたいなことを、おなじ「サイコロジカルトーク」ということばで呼んで何が言えるのか、というか。