『ワンダー 君は太陽』みた。

ワンダー 君は太陽 [DVD]

ワンダー 君は太陽 [DVD]

学生さんに勧められたのを見るシリーズ。こういう自分ではセレクトしないものを見るきっかけになるのであんがい悪くない。これもあらすじを聞いて、さいしょにこの前の『聲の形』との共通点を確認。
『聲の形』みた。 - クリッピングとメモ
まぁ、いじめが出てくる映画ということでセレクションだったのだけれど、小学校に障害を持った子が入ってきて周りの子がざわつく、という枠組みが共通している。で、『聲の形』を実際に見た感想として、子どもってストレス耐性がないからちょっと違うやつが入ってきたらいじめるという感じはありそうだった、それにしたところで学校側が何もしないし担任教師がクズだったよねということを述べてたんだけれどちょうどそれに対して、こっちでは学校側とか教師とかがしかるべき対応をしている、というのはある。それにしても、あらすじを聞いたかぎり最後のオチの、主人公が表彰されるというのは、なぜ表彰されるのか聞いててよくわからなかったけれど、そこのところも含めた学校側の対応というか発想というか考え方が、差別とか不平等とかというものに対する態度のとりかたっていうか文化的なあるべき姿みたいなののそもそもの違いなのかしらん、みたいなことも話していた。でまぁそれはともかく、これはDVDで買うとそれなりの値段がするなあと思っていたら、いまはAmazonプライムなんとかというので、レンタルということで安価で短期間だけ見ることができるというのがあるというのでそれは便利だなと、ためしに使ってみたら見れた。見てみて感想はあまり変わらなかったけれど。まぁあれか、アメリカのたぶんファミリー向け映画と、日本の京アニの、たぶんややアニオタ寄りの若者向け映画との、斜に構え方とかひねくれ方とかの違い、といういいかたがいちばんあてはまってるか。

追記。
校長が最初に3人呼ぶわけじゃないですか、金持ち、貧乏、子役モデル女子 じゃないですか。そうすると、それぞれがどんな役割を果たすだろう、と期待するわけじゃないですか、
で、金持ちがいじめる、貧乏が親友になる(けど途中でちょっと裏切って一波乱)、
だけど3人目の子役モデル女子が何のはたらきもせずにフェイドアウトするのがへんだなあと。
学生さんの話を聞いていた時には、てっきり、とちゅうで友だちになる女子が最初の女子だと思ってたんだが、実際に見てみたら、そこまでほとんど出てこなかったやつがとつぜん友だちになって、主人公と貧乏との仲直りをさせるとあっというまにフェイドアウトしたという。
ふつうだったら、金持ちと子役モデル女子が、男女それぞれのカーストのトップで、連携して主人公をいじめる、みたいなのを期待するじゃないですか(『聲の形』だとそんなかんじで)、そこがちょっと不満だったかんじではある。
あとは、やはり、いまどきの日本のいじめだと「普通のクラスメイトたちが集団でシカトしたり暗黙のいじめをやる」みたいなイメージで、
こういう、金持ちがボスで手下を連れていじめる、みたいなのを日本でやると(そういうドラマもたくさんあるけど、なんか学園に君臨するお嬢様が、みたいなかんじで)ちょっと作り話っぽく感じるのではないか、というのも感じた。まぁそのへんも、日本とアメリカの違いというよりは、ファミリー向けの映画なのであまり陰湿にやらない、ということなのかもしれないけれど。
あとそうだな、アメリカと日本との、差別とか不平等に対する態度(のタテマエ)の違い、みたいなものは確かに感じたけれど、そのなかで、いじめっ子の親というのが「まわりの子どもの権利はどうなるのか」みたいなことを言っていて、それはTwitterなんかでよく観測できる「ふつうの日本人です」の人が言いそうなことだな、そういう物言いもちゃんと存在して、それをちゃんと画面に登場させてるわけだよな、とは思った。

通勤電車で読む『最高品質の会議術』。

最高品質の会議術

最高品質の会議術

例によって会議術の本。著者の人は元ソフトバンクのひとらしい(この手の本は「元なんとか」が売りの人が多いですね)。もうだいたい大抵のことは見覚えがある感じはなくもない。会議の人件費は1時間いくらだとかからはじまって、なるべく短時間で意思決定をすることが会議の目的だ(ちんたら情報共有なんかでじかんをつぶさないこと)という話になる。でまぁ、「勝率7割」でゴー、つまり勝率10割に近づけることばかり気にしていたら判断が遅れてビジネスのスピードに立ち遅れるよ、で、PDCAを早く回して、だめなら撤退判断も早くやればいい、というのは、言い方として悪くない。でもって、では短時間で確実に成果を出すには、資料のフォーマットを決めて判断に必要なことだけを確実に議論出来るようにすべしと。そのへんはまたなるほどねというかんじ。でまぁ、この本、そういう会議術のはなしとともに、基本的に中間管理職というか、組織の中で自分が部門のマネージャー(とくに、プレイングマネージャー)となって会議を行ったり部下を育てたりしつつ、同時に、部門の代表として経営会議に出て上層部を動かし企画を通したりする、というイメージで書かれている。ので、とくに後者のはなしになると、会議術というか振る舞い方みたいなはなしにもなってくる。たとえば上層部を前にしたプレゼンのときにさりげなく、これは○○くんの企画で、彼はさいきん力をつけてるんです、みたいに部下を売り込んだりとか。ま、そうやって、効率いい会議、高いパフォーマンス、新人育成、といったことをやっていたら、社内でやる気のある者があなたのチームで働きたいと希望を出して集まってきたりしますよ、みたいな。そのへんのイメージは、まぁそれにあてはまるある種の(たとえばソフトバンクはそうなのか?)会社組織を念頭に置けば、ぐっとくるだろう。

通勤電車で読む『煩悩の文法』。

タイトルがぴんとこなくて、「煩悩」といってもいやらしい想念がわきでてくるのを抑えられず煩悶するみたいなおはなしはまったく出てこないのでそういうのをご期待の向きはほかの本を読んだほうがいいです。著者の人は、ひつじ書房の会話分析系の本だっけ(『シリーズ文と発話』で串田先生と共編者でしたね、とか)?でもよく見かける言語学の人で、この本はまぁ文法の本で、「煩悩」ということばで呼んでるのは、「知識の文法/体験の文法」という二分法でいえば後者のほうの、体験を語ることばに見られる文法的な現象にまとわりついている、つきつめれば私たちが生きていることとか、面白いreportable話を語りたいという欲?とか、そういうことを指しているようだ。

 庭に木がある。
×庭で木がある。
 
×庭にパーティーがある。
 庭でパーティーがある。

「木」のときは「庭に」のほうが自然、「庭で」だと不自然だが、「パーティー」のときには「庭で」が自然で「庭に」は不自然。
これは、「木」がモノで「パーティー」がデキゴトだから。モノが存在するのは「状態」であるが「デキゴト」ではない。
ここまでいいですね、というところからはなしがはじまって、でも、つぎの会話をまずみてくださいよと:

A:「四色ボールペン、日本にしかないでしょうね」
B:「四色ボールペン、北京にありますよ」

このBの発話、これは自然である。では、次のはどうでしょう:

 四色ボールペン、北京にありますよ。
 四色ボールペン、北京でありましたよ。

このばあい、後者も自然に聞こえるのじゃないかと。この人はたぶん北京に旅行して四色ボールペンを見かけたのであろう。「北京にありますよ」だと、一般的な「知識」として発言しているように聞こえるけれど、「北京でありましたよ」だと、「体験」として発言しているように聞こえる。「体験」を語ることばでは、「知識」を語ることばを説明する文法ではあてはまらない現象が起こるよ - というようなしだいで、著者の人は、「知識の文法/体験の文法」という区別を導入する。体験の文法では、北京にボールペンが存在するという状態はデキゴトとして扱われ、「北京で」が自然になる。とかなんとか。それではもういちど「庭の木」に戻って、これをボールペンの時みたいな体験の語りにできないかと工夫してみる:

 四色ボールペンなら北京でありましたよ。
×木なら庭でありましたよ。

やっぱり自然にならない。これは「体験の文法」に特有の理由で、「体験の文法」は、「面白い」体験にのみ許された文法であると。じゃあ「面白い」って何よ?ということを、例文をあげながら文法的に探っていくという。
でまぁいろいろお話がひろがったり展開したりするところが、言語学のおはなしっぽくておもしろい。たとえば、「体験」ということに関連して、「人称制限」という現象が紹介される。発話の可能性が、話し手・聞き手・登場人物に関して同じようには開かれていないという現象、たとえば:

 皆さんにこんなにしていただいて、私もうれしいです。
×皆さんにこんなにしていただいて、弟もうれしいです。
 皆さんにこんなにしていただいて、弟もうれしがっています。

みたいに、自分のきもちは自然に言えるがそれと同じような言い方では弟のきもちは言えない(二番目は不自然)、言おうとするなら、弟のきもちを報告する言い方ではなく、気持ちの表れを外から観察している言い方になる。これはさしあたり、「人間は他者の心を知りえない」という普遍的な人間的事実にもとづいていると思われるかもしれないが、じつは、ということで、このへんの「人称制限」のぐあいは言語によってちがってくるよ、と。英語だと、

 I am happy.
 He is happy.

これ両方いえちゃうよと。つまり、どんなふうにどのぐらい人称制限があらわれるかは、日本語、英語、それぞれの言語的現象ですよと。ふーん。
そんなこんないいながら、この本というのは、日本語という言語に特徴的な(日本語を母語としない言語学者言語学理論ではあつかわれず、日本語を母語とする言語学者にはあまりに自然でみすごされてしまうような)言語的現象のひとつ - 状態がデキゴトになりうる - を鋭敏に表すような例文、たとえば、デキゴトの存在場所を示す格助詞「で」を持つ文なのにデキゴトでないものが語られているにもかかわらず自然でありうる - 「四色ボールペンなら北京でありましたよ」 - にみられるような現象をてがかりに「体験としての状態」というアイディアを言語研究に取り入れるよ、と。

『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』『ダークナイト ライジング』みた。

バットマン ビギンズ [DVD]

バットマン ビギンズ [DVD]

『ジョーカー』公開ってことでちょうど「ダークナイト三部作」を放送してたので録画してたのを見た。クリストファー・ノーラン監督というと『インセプション』もそうだったのだけれど、なぜか眠たくなるのだった。
『インセプション』みた。 - クリッピングとメモ
まぁそれでもなんとか見たわけだけれど。なんかこう、そもそもバットマンって子ども向けの漫画でしょう?という世代なので、妙にいかついコスプレのバットマンが黒いマントをひるがえしてバイクで走ったりしてても本気になれないところもある。しかしそれをさしひいても、なんかそれっぽい画面はたくさん出てくるけれどかんじんのお話がいまひとつつかめない。まぁ、大人向けということで、たんなる勧善懲悪ではないものということなんだろうけれど、しかし『インセプション』のときもわかりにくかったので、これはクリストファー・ノーランという人のせいではないかという気もする。まぁいちおう、勧善懲悪ではないといえ、バットマンが悪者と対決するのだ、というところはやはり基本なはずだし、そうであるなら、バットマンはこういう人です、悪者はこういうやつです、両者はこういうしだいで戦うことになりました、バットマンはこんなふうに強いけれど、こういう弱点があります、悪者はその弱点を突いてきました、ひきょうものですね、悪者はこんなぐあいに無敵な感じに見えます、さあバットマンはどのように困難を突破するでしょう、あっとびっくりバットマンはこのように驚くべきやりかたで困難を突破しました、痛快ですね、そしてバットマンは勝利しました、悪のたくらみはついえました、よかったですね、とまぁ、そういう基本線はいちおう押さえてほしいもんなのだが、けっきょくのところバットマンがなぜどのようなやりかたでどのくらい強いのか(たんなる腕自慢のコスプレおじさんなのか、最新科学の力で超人的パワーを身につけているのか、等々)、おなじく悪者はなぜどのようなやりかたでどのくらい強いのか(どの悪者もとりあえずサイコパス的であるということはわかるけど)、さっぱりわからない。で、バットマンと悪者の対決が殴り合いだったりして、何やってるのかと思う。また、戦闘シーンの多くで敵味方がわあわあいりまじってよくわかんないのも『インセプション』のときと似た印象で、こういうのも、たとえば悪者はみんな黒い服を着ていますよ、いい者はみんな白い服を着ていますよ、いいですか、悪者は黒いい者は白ですよ、ぐらい念を押してから戦闘シーンになってくれるとわかりやすいんだけれどねえ。
ジョーカーはなぜシナトラを口ずさむのか? 映画『ジョーカー』で登場する「That's Life」と「Send In The Clowns」
↑この文章が、『ジョーカー』からふりかえる「ダークナイト三部作」の「アキレス腱」にふれていたんで、そうなのかと思って見てたところもある。この文章では、クリストファー・ノーランのジョーカーが抽象的な「絶対悪」になって、象徴的・図式的な対立を描いているのだといっていて、まぁたしかに説明抜きの悪者という意味では純粋化された絶対悪といえなくもないけれど、でもまぁ図式的というわりにはわかりにくかったんでねえ。
それはそれとして散髪した。夏になんかけっこう刈り上げられてしまったのでながもちして、まぁ二カ月たったのでそろそろってことで散髪屋さんに行ったところ、また知らないおじさんに当たって、このおじさんが最初にどうしましょうかとかいっさい聞かないかんじのストロングスタイルの人だったんでちょっとびびってしまい、あ、あのぅ、というかんじでちょっと当方の意向を恐る恐る少し伝えてみたりしたのだけれど、はたして受け入れてもらえたのかはよくわからない。

通勤電車で読む『ブルーノ・ラトゥールの取説』。

ブルーノ・ラトゥールという人の名前はいろいろ出てくるわけで、まぁ自分的には以前ここで別の本に関連し書いていたように、むかし院生の時に「ブルーノ・ラトゥア」さんだと思い込みながらけっこうおもしろそうだと言ってた覚えがあるけれど自分的にはその時点で流行は終わってたわけだけれど、
通勤電車で読んでいた『野生のエンジニアリング』。タイの中小工業の、人と機械の人類学。面白かった。 - クリッピングとメモ
ともあれ最近も翻訳が出たりしたのを買うには買ってたら、職場の若い先生にみつかって「ブルーノ・ラトゥールありますね」とか言われて、読んでなかった(し読めなくて積読いっちょくせんだろうなと思ってた)のであちゃあというかんじで、でもまぁちょうどこの本を読もうとしてた頃でもあったので「あ、とりあえず入門書とか読もうと思ってます」とは答えたのだった。でまぁ、読んだ。
でまぁ、この本で、ブルーノ・ラトゥールは不真面目な書き方ばっかりで、どこまでまじめに受け取っていいのかわからんと言われるみたいな紹介の仕方で、あとがきでは「率直に言って、私はラトゥールが好きではない」とかいきなり言ってるし、まぁそういうスタンスの人が「取説」ということでまとめてる本。なのでまぁ読みやすいし、まぁおかしなこともいうてへんなとおもったが、逆に言うと、まぁこういうのはだいたい見慣れてるなとも思ったし、まぁ、このへんエスノメソドロジーとどうちゃうのと思ったところもあった。まぁ、モダンでもポストモダンでもなくてノンモダンだとか、まぁ脱構築だとか、まぁそういう言い回しをふりまわすあたりはまぁどうでもいい。落ちのところで岸政彦フィーチャーなのもまぁ電車が駅につきそうだったので読み飛ばし気味だった。
ところで、
自分がむかしにおもしろがった「ドアクローザーの社会学」というのが、webにあった。
www.bruno-latour.fr
→pdf http://www.bruno-latour.fr/sites/default/files/35-MIXING-H-ET-NH-GBpdf_0.pdf
著者が「Jim Johnson」名義になっているが、註で、「Jim Johnsonというのは偽名で、著者というものを脱構築するのだ」とか書いてるのを見てひさびさに、当時、同級生の山口氏がそれを見て激怒してたのを思い出した。そういう底の浅いギャグは山口氏が最も許さないものである。

『聲の形』みた。

学生さんのおすすめということでまぁ、こっちは見ずにあらすじを聞いて、それからそのあとでYouTubeで予告編動画なんか見たら、あ、これがそのシーン、これが主人公で、あーこれが妹、ボーイッシュ、なるほどねえ、えー?主題歌aikoなん?あー×が付いてるってこれねなるほどね、等々やってたんやが、一番の衝撃は、主人公の親友役の男がちらっと映った時のそのビジュアルで、なんかもうこいつだけ作画がとにかく違う。でまぁ、カースト底辺であるということは聞いてたんである程度は想像しながらあらすじを聞いてたけれどその想像を異次元的に超えたビジュアルで、それはどうなのかと。とにかくそこが衝撃過ぎた。あとは、あらすじというかかなりシーンを追って説明してくれたんで聞きながら想像しながらだったのだけれど、なかなかこっちとしてもおもしろくて、聞いてるだけだったら憎まれ役の女子はかなりサイコパス?という印象だったし、だいたいの話の展開を聞き終わっての感想は、「この話、ヒロイン女子が耳が聞こえない設定、要る?」ということだった。まぁそのへんは学生さんの説明のさじ加減でもあったわけだけれど、小学校のときに転校性女子が来ました、うじうじしてたのでいじめました、いじめた男子@主人公がこんどはいじめられました、それが中学まで続いて高校でその女子と主人公が再会してどうのこうの、小学校時代の同級生がまたあつまってどうのこうの、ぎすぎすしたりしつつさいごに和解しました、みたいなふうに筋書きを拾うと、まぁ『聲の形』というタイトルからなんとなく期待するような「障害」のテーマというのはあまり関係なさそうだなという気がしたわけである。でまぁ、学生さんは、いやまぁそんなことはなくて、等々言ってたし、「まぁ実際に見ると印象違うんやろうね」等々言ったわけだけれど、まぁ学生さん的にもこの映画はどっちかというと「いじめ」に関連してということだった。まぁでもこれまた学生さんのあらすじ説明だけ聞いたら、たんにサイコパスな悪役がいじめを行ったというような印象を持ったんで、「うーん、きみ的に「いじめ」ってことでぴんとくるところがあったわけやね」と確認すると「あーでもいろいろありました」ということだった。でまぁ、自分でも見たら、まぁなるほどおっしゃることはわかって、まぁやはり実際に見たら印象ちがって面白く見れた。まぁ「いじめ」については、小学生ぐらいだとこんな感じなんだろうかな、という印象でそれなりの説得力は感じたが、まぁこれは教師が学級運営してないじゃんねえという印象。まぁあとは、いまどきの若い子とは自分はもうずいぶん感覚が離れてしまっているので、「いじめ」とかスクールカーストとかに対するこだわりかたの感覚がわかんないんだろうけどたぶん今の子はこうなのかね、というかんじ(ストーリーが、小学校時代のトラブルについてみんなが根に持っているということを動機にして動くので、いやまぁしかしふつう誰しももっと適当に切り替えて生きていくでしょう、ちょっと脚本が安易なんじゃないの?と感じなくもなかったんだけれど、学生さんは相応にこの映画に納得してたし、まぁたぶん世間的な評価もそうなんだろうから、こういう感覚をあるていど真に受けるべきなのかもとも思ったしだいである)。それにつけてももう一度言うが、やはりこの親友役の作画だけ異質なのは、つまりようするにいじめとか排除とかいうのはこういうことを言うんじゃないのか?と思いはする。

通勤電車で読む『社会にとって趣味とは何か』。

はじめにのところを読んでたら、この本は宮台真司ほか(1993)『サブカルチャー神話解体』を下敷きにして乗り越えるみたいなことで書かれたみたい。それで、さしあたりなるほどこの表紙のきもち悪いドット模様はそのリスペクトなのかしら、などと卓越化的にデータベース消費したわけなのだが、じつは自分は世代的にはきわどく宮台真司は通ってこなかった。宮台真司という人はソシオロゴス界隈の人で、『権力の予期理論』というのは大学生協でちょっと立ち読みしたけどぴんと来なくて(たぶん後々じぶんがゲーム理論がぴんと来ないののはしりだと思う)、そのうちその本はたしか『現代社会学』かなにかの書評で橋爪大三郎に総括されてた気がしたのでなんかわかんないけどやっぱりなと思ったという、で、その後、教育社会学会の課題研究「<異界>に生きる少年少女」(1991)の発表者として登場、満員立ち見の会場にちょっと少なめの配布資料で飢餓感を煽りつつマーケターみたいな喋りで「~なわ・け・で・す」みたいなかんじで、たしか調査か何かをやったということで異界を生きる若者の知り合いで代弁者だみたいなかんじでぺらぺらと喋ってずいぶん感じ悪いなあという印象を持ったという、でまぁあまり感化される感じにならないまま今に至るわけなのだった。
なので、それから四半世紀たって手にした本が、我こそは日本の社会学や若者論を背負うという意気込みとともに、宮台真司を乗り越えるのだみたいなことを言われても、またそれで実際の分析を読んだらアニメとかオタクとかのはなしだったりすると、なんかこう総じて、まぁねぇという感想にはなるのだった。

そうそう、やっぱりだ。上記↑の教育社会学会の課題研究報告で、宮台という人が妙にマーケターみたいな喋り方をしていた印象があり、だからマーケティング調査会社で働いていたのだと思っていて、だから宮台という人というのはきっと、要するに博論でルーマンとかゲーム理論とかで書いたものの挫折してその後はもっぱらマーケティングの仕事能力で、表面上は「ルーマン」だの「システム論」だのという用語をふりかけて、仕事をしていた人だ、というふうに思っていたのだけれど、さっきWikipediaで見たらマーケティング会社で働いてましたとか全然出てこなかったので、それは勘違いか、偏見はよくないなあと思っていたのだけれど、
dl.ndl.go.jp
当時の学会の予稿をなんとなく見直してたら、やっぱりマーケティング会社の仕事もやってはいたんですな。

私の専門は、社会システム理論一般とその特殊領域としての権力理論だが、84年から87年にかけて自分たちが設立したマーケティング会社で実務に従事したのがキッカケで、応用問題として日本的権力研究の延長線上に80年代の日本の高度消費社会を分析してきた。方法的には多変量解析、潜入調査、メディアの歴史的内容分析を、システム理論に結合するというやり方を採用し、入手容易なものとして以下の業績を公表してきている。
・・・

うーん、まぁだから、時間的な前後関係として、博論で挫折してマーケター仕事のほうを売りにした、という先入観はまちがいだったようなのだけれど、まぁマーケティング会社の仕事がその後の方向性のもとだったってことぐらいは言えそう。