通勤電車で読む『宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ』『宇宙怪人しまりす医療統計を学ぶ 検定の巻』『宇宙怪人しまりす統計よりも重要なことを学ぶ』。

れいによってTwitterで見かけて読んでみた。宇宙の征服をもくろむりすりす星の宇宙怪人しまりすが、地球の医療統計の先生に統計を学ぶ、という対話篇形式の本。基本的には統計入門で、むずかしい数式を出さないよというタイプのやつ。地球のかぜぐすりヨクナールが効くかどうか調べる、みたいな例をつかいながら、平たく説明している。3巻目では、「統計的に有意」とは、みたいなはなしが出てくる。「ASA声明」(https://www.biometrics.gr.jp/news/all/ASA.pdf)とか。www.jstage.jst.go.jp
それはそれとして、
この本のいいところはしまりすのイラストだと思うのだけれど、なぜかある章の扉絵で、プリンス仕様のギターを弾いているカットが入っている。
それはそれとして、このシリーズが好評に付き、中外製薬YouTubeチャンネルで動画になっているようだ。全6回。
www.youtube.com

近所の久々に行った書店で買った『もう一杯だけ飲んで帰ろう。』。

三月某日、さる用件のため出かける。近所だったけれど雨だったので電車で。それでちょうどその少し前に、Google地図で近所の本屋さんをあらためて探していたのは、散歩のたびにいろいろな店が閉店になっているのを見つけては悲しくなってしまうからで、それでいまけっきょく近所はどうなっているのかと。それでGoogle地図だと書店じゃない店が書店で登録されたりしてるようなものあり、けっきょく様子がわからなかったのだけれど、なんとなく近くの駅に書店を発見した。そこで、そんなところに新しくエキナカ書店でもできたのかしらと思っていたのだけれど、さてそういうわけで雨の日に電車で出かけてちょうどその駅で降りることになったので、そうそう、書店を偵察してみるべし、ついでにそこのパン屋さんでおいしいサンドイッチを買って帰るべし、と算段する。で、駅に降り立って構内を歩いたら、驚くべきことに書店はあり、驚くべきことにそれはずっとずっと昔からそこにあって昔はよく立ち寄っていた本屋さんなのだった。いまの下宿に越してきてから足が遠のいていた(たぶん5年前に買った『バカロレア幸福論』(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2019/08/27/201546)をこの店で買ったような覚えがある)とはいえ、すっかり忘れていたことにちょっと驚いたものである。それで久々に店に入って、ちょっと懐かしく棚を眺めて、探していた本はなく、しかし久しぶりの店なのでちょっと何か買おうかしらと、文庫の棚の、食べ物エッセイが並んでいる中から一冊をレジに持って行った。それで店を出るときに自動扉に閉店のお知らせの紙が貼ってあって固まってしまったわけである。
小説家の角田光代とその夫の河野ってひと(ミュージシャンらしい)が、飲み屋さんに行って、それで同じ店のことをそれぞれが短いエッセイにする、という雑誌の連載かなにかを本にしたもの。楽しく飲んで食べて、そして夫婦でおんなじようなかんじでおんなじようなことを書いているので、まぁそういうのが楽しそうだなあと思うわけである。連載はコロナ禍前のことで、だからときどきエッセイの末尾に店の動静(閉店したとか移転したとか)が小さな字で書いてあると、たいへんだったのかなと思うこともある。しかしやはり東京というところにはたくさんの店があって、行きつけの店をつくったり新しい店をみつけたりで毎日楽しく幸せに暮らしていくことがあたりまえにできるところなのだなあという感想も持ったわけである。

通勤電車で読んだ『同調行動のエスノメソドロジー』。

ビジネスコミュニケーションの場面において、日本人と中国人ではコミュニケーションのとくに「同調行動」のやりかたが違うのではないか、それがときに問題になることもあるのではないか、ということで、じっさいの場面の録画や実験的に設定された場面の録画をELANというソフトで分析して、いろいろなアクションの回数や秒数を表にしたりしながら、違いをあきらかにしている。
こういうスタイルの研究はあるなぁと思いつつ、西阪仰 (1997)『相互行為分析という視点―文化と心の社会学的記述』の、第2章「「日本人である」ことをすること:異文化性の相互行為的達成」だっけな、を思い浮かべつつ。

通勤電車で読んでた『本を売る技術』。たんに本好きというより本屋さんというシステムへの職業意識がすばらしいタイプの本好き。クール。

このまえ立ち寄ったかんじのいい本屋さん(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2024/03/18/212541)で買ったもう一冊。れいによってTwitterで見かけて面白そうだと思っていた本が売られていたので買ったわけである。本屋さん本というのは好きで特に一時期ちょいちょい買っていたけれど、ひさびさではある。著者の人は1980年に東京の芳林堂書店池袋本店ってとこから書店員人生をスタート、そこからパルコブックセンター新所沢店、吉祥寺店、渋谷店、そして合併統合によりリブロ池袋本店に異動、2015年閉店まで勤務、36年間売り場で本を売り続けた人、なのだそうだ。で、この本、正確にはインタビューというか聞き書きの形で書いてあるので、まぁ読みやすいし、タイトルそのままに技術論を語っているので、たぶんある種の書店員の人が読んだらとても勉強になるだろうな、という本で、しかし面白いので書店員じゃなくても面白く読める。
本の内容的には紹介記事↓があるわけだが
business.nikkei.com
www.tokyo-np.co.jp
読みながらなんとなく思っていていま著者の人の経歴を書き写しながら改めて思ったのは、「リブロ」っつったらTitleって本屋さんがもとリブロだとか(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20170520/p1)、『書店風雲録』『書店繁盛記』のひとがもとリブロだとか(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20160630/p1 https://k-i-t.hatenablog.com/entry/20160703/p1)、そうすると、イメージとしては「80年代ニューアカ」を仕掛けた「文脈棚」の本屋さん、みたいなのを思い出したり、あるいは他方では『書店繁盛記』で描かれたような、アマゾンの攻勢は激しい、取次がこちらの欲しい本を寄越さない、みたいなのを思い出したりしながら、うーむ、そういうのとイメージ違うんだよなあというのがこの本の印象。ひとつには、自分の好きな本への思い入れ、みたいなものに動かされてなくて、売れる本をきちんと売れる場所に置き、棚や棚下や平台に理にかなったやり方で本を並べ小まめに並べ直し、売れない本をきちんと見極めて返本し、お客さんにとって常に新鮮な本が並んでいるようにする、というのをきちんとやっていくことでよい本屋さんができる、という。たんに本好きというより本屋さんというシステムへの職業意識がすばらしいタイプの本好き、という印象。そうすると、なにか自分の考えやらセンスやらで棚を作って仕掛ける、とか、情熱を込めたPOPでその本の良さを客に伝える、みたいなのはあまりやらないと。むしろそういうのは、書店員の人自身が「棚に癒される」「POPに癒される」ほうが主じゃないかと(POPが立ってると後ろの本が見えなくなるからよくないとか)。そのへんはまぁしょうじき共感するところはあって、本屋さんが自分のセンスで棚を作りました!!みたいなのは、まぁとくに自ジャンル解釈違いみたいだったりするとけっこうイラっとしたりすることもままあるわけで、それよりは、いつ行ってもどこか新しい発見のある、回転のいい本屋さんのほうが好感が持てるってのはあるよなあと。あと、しかし、これも前に読んだような「アマゾンの攻勢は激しい、取次がこちらの欲しい本を寄越さない」状況というのがあんまり表立って語られてないわけで、そのあたりは気持ちよく読めるのだけれど、でもちょっとほんとかなあという気もしてくるし、いちどに何百冊入荷、平台に多面展開するには、みたいな話は今の全国の本屋さんの中ではごくごく限られた、東京とかの大規模店の勝ち組の方法論なのかもなあという気もしてくる。

途中下車して本屋さんで買って読んだ『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』。

tohon.shop-pro.jp
通勤電車に乗っていたら電話がかかってきて、ちょうど駅だったのでぱっと降りて電話に出た。それで案件がとてもいいぐあいに解決してよかったし、アポの時刻も夕方になって、そしてふと気が付くと、その駅はこのまえ少し散歩していい感じの本屋さんがあったところだったのだ。ちょうど探してる本があって、それでそのまま改札を出て、駅前の本屋さんを物色して、それからまた少し歩いていい感じの本屋さんに入って、まぁ探してた本はなかったのだけれどなんとなく気になってた本があったので2冊ばかり購入。でまた駅前の本屋さんに戻って1冊買って、それでまた電車に乗って出勤、アポの時間まで読んだりしてた。
ところでこの『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』という本をさいしょに何で見かけたのか、思い出せないのだけれど、なにか気になってた小説を検索してたらなにかのながれで画面に出てきて気になったとか、たぶんそんな感じだと思う。それでいい感じの本屋さんに行ったら並べてあって、なんとなく購入。なんか、文庫版サイズだけれど、リトルプレスというのだそうで手作り感のある小さい本で、内容としては、歌人でもある著者の人が18歳で東京に出てきて働いてた頃のあれこれを書いたエッセイ。

そういうわけで大学で使う用のノートPCを購入。

このまえから調子が悪くなっていた大学で使う用のノートPC(https://k-i-t.hatenablog.com/entry/2024/02/29/150224)、とっとと見切りをつけて新しいのを買うことにした。でまぁamazonでまた激安のものを物色、結局適当にさいしょのほうに出てきたやつを朝、出がけにクリック一発で発注したら夜帰宅したら自分より先に下宿に届いていた。世の中は狂っているね。Amazonの配達のひと、ほんとうにおつかれさまです。
で、SERYUBという、もう読み方もわからないようなメーカー(検索してみたらどうやらやはり中国の深圳のメーカーのようですね)のもので、お値段はおどろきの27,988円。お色は華やかなローズゴールド(なんか3色のカラバリで、ローズゴールドが一番安いみたい。売れないのかな。わたしはかまわない)。いまそれで書いてるけど、まぁ例によってキーボードが日本語のではないので日本語切替のキーがないのが使いにくいけどそれは前のもそうだったからいいことにする。
れいによって筐体がちゃちっぽいけどまぁ気にしない。雑に使いたくて安いのを買っているわけだから、まぁせいぜい雑に使う。

こういうのは調べてみるもんだね。USキーボードには日本語切替キーがついてないので、「ALT」+「‘」でいけるのだと。はいいけました。なるほどねえ。「‘」というのは、日本語キーボードの日本語切替キーの場所にあるキーなので、つまりそれを「ALT」といっしょに押せばいいんだよと。はいはい。こういうのはおっくうがらずにしらべるとだいたいでてくるね。

4/10.
基本的には使えているのだろうが、現時点ちょっとむつかしいのが、ふだん学科会議をやる共同研究室でwifiの電波がちょっと弱いようだということ。で、みんなで「弱いですね」と言ってはいるのだけれど、なんかほかの人のPCはなんとなくつながってるところ、私のPCだけつながらなかったりぶつぶつ切れたりするかんじがある。そこのところが激安PCだからだろうと思ったわけだけれど、つまり、アンテナの部品が粗悪なのではと。そういうことがあるのか。でまぁ、基本的にその共同研究室の電波の弱さについては以前から情シスさんに報告していて、いちど対応をしていただいて、こんどまたもういちど調整してもらう予定。で、wifiの電波がある程度の水準でさえあればとくに問題はないわけなので、それをPCの不具合に数え入れるのも酷な気もしなくもない。
ともあれ何か簡単な対策があればほどこすべしということで、外付けの無線lan子機を買ってつないでみたりした。結論としてはあまり改善されないみたい。そんなもんなのかな。まぁ、1600円ほどの子機なのでこれ自体安物であるわけだけれど、しかし激安PCを買うというゲームで無線lan子機を上等にするというのは負けた気がするわけじゃないですか。
流れで、無線lanの電波状況を測定するフリーソフトを入れて可視化してみたりしている。
forest.watch.impress.co.jp
おもしろくはあるけれど、まぁすでに事実として電波が入らないで困っている場所でたしかに電波が弱いことが見える化されているだけなのでとくに新発見があるというわけではない。まぁな。外付け子機をつないでもあまり数値が変わらないように見えるのは少し面白くて、つまりこのソフトで可視化されている数値はアンテナの性能に依存しているのかいないのかという疑問がでてくる。ソフトの性格上、見える化されているのは「電波の強さ」なわけだからそれはアンテナの性能から独立して「客観的に・外側に存在する」ものだという建前である。しかしそれを測定するにはアンテナを使ってるわけだからアンテナの性能に依存してるんじゃないの?と当然思う。それでは外部アンテナを付けたら数値が画期的に変わるかというとあまりかわらない。そういうものなのか。

通勤電車で読んでた『翔んでるケインズ』。1983年の「イラストで読むケインズ」はとにかく1983年感。

ふとケインズのことが気になって…というかようするに、大阪万博についてTwitterなどでいろんなひとがわいわいいってるのを見つつ、ふと、「穴掘って埋める」というのを思い出したわけである。穴掘って埋めるだけで効果があるなら、大阪万博だってまさに穴掘って埋めるというか地盤が軟弱で文字通り穴掘って埋めてるんだろうし建造物にせよなんにせよ穴掘って埋めようとしてるわけでまことにけっこうとならないのか、と考えてみる。でまぁもちろん、公共事業をやっても別のところでケチって支出を減らそうとしてたりしたら穴掘って埋める効果が帳消しなのかな、と思ってみたり、まぁ公共事業をやっても身内優先で金が回るようなら文句は出るかもなとか、その身内がケチで乗数効果がさっぱり効いてこなければやっぱりいまいちなのかなとか、まぁもちろんどうせ公共事業をやるならほんとに穴掘って埋めるよりはもっと世の人の喜ぶことをやればいいわけだけれど、まぁすくなくとも、穴掘って埋めるのをやろうとしてるのを無駄だと言って中止すべきという以外に話の持って行き方があるかもしれないよ、だって穴掘って埋めるのは無駄だから中止すべきってだけなら「福祉は無駄だからカットしろ」「大学は無駄だからカットしろ」みたいなことと変わらんじゃないか、とか、つらつら考え、ともあれ、「穴掘って埋める」というのが気になったわけである。
でまぁ、さしあたり検索したら、「穴掘って埋める」は不正確、というのが出てきたね:
toyokeizai.net

…実際には、ケインズは、著作の中で、不況で失業者が生じている時に、自由放任を信条とする政治家たちに対して、何もしないでいるよりはお札を詰めた壺を廃坑に埋めるとかした方がまだましだという皮肉を言ったのでした。しかも、それに続けて、「もちろん、住宅やそれに類するものを建てる方がいっそう賢明であろう。しかし、もしそうすることに政治的、実際的困難があるとすれば、上述のことはなにもしないよりはまさっているであろう」と書いています。住宅建設など、より賢明な公共投資がやりたいならば、もちろん、その方がいいとケインズははっきりと言っているわけです(以下、J・M・ケインズ雇用・利子および貨幣の一般理論』(東洋経済新報社)を参照)。
 
ところが、世の中では、この表現のニュアンスを理解できないどころか、ケインズが書いたものすら読まずに、「ケインズのように、穴を掘って埋めればいいなどというものではない」などといった言い回しで、財政政策を批判する人が後を絶ちません。

ふむ。なんだかよけいわからないというか、「穴掘って埋めるだけでいい」なら理屈としてわかりやすいけれど、「お札を詰めた壺を廃坑に埋めるとかした方がまだましだ」というのは、なにしろその「お札を詰めた壺」が何の比喩かわからないっていうか、「廃坑に埋め」てしまったらそのお金が市場から消えてしまうので乗数効果も効かなくなってしまうのでは、とか、よけいいみがわからなくなってしまわなくはない。
ともあれ、ひさびさに読んでみようと、じつは学生時代に買っていちおう読んで以来ずっと研究室の本棚に並べて幾星霜の『翔んでるケインズ』を読み直してみたわけである。奥付を見ると1983年の本で、自分が買ったのも学生かたぶん正確には院生のころに古本屋で買った(ケインズフリードマンサミュエルソンガルブレイスの4冊を買った)んだと記憶しているけれど、まぁ、ノリとしては日本版・経済学者版のフォー・ビギナーズみたいなかんじで、それっぽいイラスト入りでケインズの足跡と理論とその影響をわかりやすく紹介してる。でまぁ、かんじんの「穴掘って埋める」のくだりは出てこなかったのでよくわからなかったけれど、しょうじきいちばんの印象は、これが1983年の本だということだった。イギリスはサッチャー時代。アメリカはレーガン。で、日本はバブル景気よりは手前、でもそれなりの上昇感はあったかんじ。まさかこの後、バブル崩壊とデフレの陰鬱な未来がくることになるとは思ってなかったよなあ。